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『レ−シングの源流』のメニュ−へ
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■ひるがえる、日章旗。

 予選で1、2番手を確保したホンダ勢は、一気に250ccクラス初優勝の機運に包まれた。日本で風洞実験による開発を続けていた、超高速サーキット・ホッケンハイム用の新型カウリングが到着し、その優れた空力効果がすぐさまラップタイムに結びついたのだ。ポールポジションにジム・レッドマン。続く2番手には高橋国光。しかし、3番手にMZのデグナー。4番手にモリーニのプロビーニ、さらに5番手にはこの年第1戦の覇者MVのホッキングと、名だたる強豪たちが居並ぶ。そして、運命のスタートが切られた。

1961年 世界選手権ロードレース 第2戦西ドイツGP 250ccクラス
高橋国光による日本人初優勝のレースレポート

 このレースで1、2位を独占したホンダ勢はその後、怒涛の進撃を続けた。ライバルMZのお膝元東ドイツのザクセンリンクと、高速コースイタリアのモンツァで125ccクラスの優勝を逃した以外、125ccと250ccのすべてのレースで優勝。中でも250ccクラスでは第3戦以降すべてのレースで表彰台を独占するという、圧倒的な強さだった。

 とりわけ第4戦マン島TTでの快勝は、世界に大きな衝撃を与えた。125ccと250ccの両レースで、1位から5位までを独占。世界の2輪誌がこの快挙を書き立てただけでなく、一般誌、さらには由緒ある有力新聞などにも取り上げられ、「HONDA」の名は瞬く間に世界を駆けめぐった。

 これらの快走と連勝は、帝王MVの記録を破るばかりでなく、それまでMVが樹立してきたコースレコードもことごとく撃破していた。さらには、出場している250ccクラスの平均レースタイムが、350ccクラスのそれを上回ること5レース。ここにきて、ホンダは完全にMVの牙城を突き崩し、新たなるGPの主役の座へと躍り出ることとなった。

 この年、125ccクラス11戦中優勝8回、1〜3位独占4回。250ccクラス11戦中優勝10回、1〜3位独占9回。125ccクラスではトム・フィリスが、そして250ccクラスではマイク・ヘイルウッドがタイトルを獲得し、250ccクラスではランキング上位5位までをホンダライダーが独占。そして念願のマニュファクチャラーズランキングでも、2クラスでタイトル獲得と、ホンダはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いでGPサーキットを駆け抜けた。

 本田宗一郎の、烈々たるマン島出場宣言から7年、実際のGP挑戦から苦節3年にして、ホンダは世界GPの頂点にたどりついた。

 そんな中、翌1962年から世界グランプリは新たな時代を迎えようとしていた。新しく50ccクラスが制定され、世界選手権は50、125、250、350、500、サイドカーの6クラスに拡大。ホンダは、この50ccにも参戦を決定。さらに350ccクラスへも進出することとなり、合計4クラスへ参戦する、GP最大規模のチームへと成長していく。MVなきあと、GPの主役は完全にホンダのものだった。

 しかし、時代は新たなる局面へと向かって急速に加速していた。その足元へひたひたと忍び寄る、新たなるライバルの影。それは、MVやMZにも勝る勢いで、ホンダチームの背後に迫っていた。

第7話 初優勝、初タイトル・そして輝ける日々へ

■帝王なきあとの荒野へ。

 1961年シーズンの開幕戦となる、4月23日のスペインGP。バルセロナはモンチュイッヒ・サーキットのパドックには、二つの大きな人だかりができていた。

 ひとつはもちろん、この年GP挑戦3年目を迎えたホンダチームのピットだった。125ccと250ccの2クラスに、それぞれ5名ほどのライダーを揃え、マシンも熟成を重ねた1961年型。やる気と自信に満ちたスタッフから、GP挑戦3年目とは思えない風格と落ち着きが感じられた。

 各国の報道関係者も、ホンダをGPの最有力チームとして扱い、その一挙手一投足が注目の的となっていた。前年1960年シーズン、まだ勝利を記していないホンダではあったが、1961年シーズンを迎えてホンダが達成してきた、ライダーの陣容、マシンの完成度、さらに自信に満ちたチームの雰囲気を見れば、GPの主役がホンダであることは、もはや誰の目にも明らかだった。

 一方、まったく逆の意味で人々の注目を集めたのが、それまでGPの帝王の名を欲しいままにしてきたMVアグスタだった。

 この年の始め、1961年シーズンのワークス活動休止を発表したMVアグスタは、タンクに「MV PRIVAT」の大きなステッカーを貼っていた。つまりこれは、MVとしてのワークス活動ではなく、ライダーであるゲイリー・ホッキングのプライベート出場であり、MVはマシンを貸与しているに過ぎない、直接のワークス活動はしていないというメッセージだった。

 GPを席巻していた有力ライダーも、MVのピットにはもういなかった。軽量クラスで絶対的な力をみせたカルロ・ウッビアリは、1960年をもって完全引退。重量クラスの雄ジョン・サーティースはさらなる栄光を求めて4輪レースへと転向していた。他のライダーの多くもMVの撤退と時を同じくしてGPサーキットから去り、2輪レースにMVでの出場を強く願ったホッキングだけが、ひとりピットにいた。

 はたして開幕戦のスペインGP。125ccクラスで前年型RC143を駆るトム・フィリスが2位に21秒もの大差をつけてゴール。この瞬間、ホンダはGP挑戦3年目、125ccクラス参戦7戦めにして、栄光のチェッカーフラッグを受けた。「私たちは初めて世の中に出た井戸の中のカエルでした。でも、ただのカエルでは終わりません。来年も再来年も世の中に続けて出して下さい。きっと3年先には、世の中や大海を知るカエルに成長することをお約束します。私たちは日本に生まれたカエルです。他国のカエルなどに負けないだけの魂をもっています」

 河島監督が、挑戦初年度のマン島から本田宗一郎に書き送った誓いが、見事に成就された瞬間だった。

 河島の中には、当初からGP挑戦の緻密な青図が描かれていた。1年目は、とにかく挑戦してライバルのレベルを知ること。2年目にはマシンの熟成を進め、入賞の手応えを得るとともに、3年目の勝てるマシンづくりの具体的な方策を徹底的に見きわめることだった。

 だから、もちろん最高の喜びを発散させながら、河島は、すべてが自分の思いどおりに運んでいく様を冷静に見つめていた。ある意味で、1961年に勝つことは当然。ホンダが目指すものは単なる1勝ではない。表彰台独占、年間チャンピオン、MVの持つコースレコードの記録更新など、その「頂」はまだまだ遠いものだった。 

 しかし、125ccでは大差の優勝を手にしたものの、250ccではこのクラスにスポット参戦するMVのホッキングに優勝をさらわれ、2クラス制覇の夢はお預けとなっていた。

 続くは、超高速サーキットで知られた西ドイツはホッケンハイムリンクでの第2戦。ホンダ同様、MVなきあと軽量クラスの盟主の座を狙う、2ストロークの先鋒MZと名手エルンスト・デグナーの実力も決してあなどることはできない。また250ccクラスでは、単気筒ながら抜群のハンドリングと火の玉男タルキニオ・プロビーニの鬼神のライディングで鳴らすモリーニの存在も気がかりだ。

 そしてホンダチームは、平均時速180km/hを越える、この年最速のコースに駒を進めた。

1961
「レーシング」の源流