●1934年、4月9日にオーストラリアのシドニーで生まれる。少年時代には自転車レースに出場していたが、その後、16歳のときにBSAのディーラーでメカニックとして働くようになり、'54年、20歳のときにモーターサイクル・ロードレースにデビュー。最初のうちはオーストラリアの国内選手権で活躍するが、'58年に渡欧し、ヨーロッパ各地のレースに参戦して頭角を現した。'60年に前年から世界グランプリ参戦を開始したホンダ・チームの一員となる。'61年開幕戦スペインGP125ccクラスでRC143を駆って優勝。ホンダにとって初の世界グランプリ優勝を達成した。この年('61年)はその他にも3戦で優勝し、125cc世界チャンピオンに輝き、250ccクラスでもマイク・へイルウッドに次いでランキング2位に入った。しかし、翌'62年6月6日にマン島TTレースのジュニアクラス(350cc)に出場した彼は、コースアウトして石壁に激突し、不帰の客となった。温厚で親しみやすい性格のフィリスはパドックでも人気者であったと同時に、彼の才能とファイティング・スピリットは高く評価されていた。
その後ノートン、AJSなどのワークスマシンを駆った後、イギリスの有力ホンダディーラーの推薦によって1961年からホンダチームに加入。1961年1勝、1962年1勝を経験。しかしその後1962年8月、イギリスはオルトンパークの国内レースで転倒し、帰らぬ人となった。マッキンタイヤは、1957年にジレラがワークス活動から撤退したのを機に、また自国の英雄でもあるジョン・サーティースの後を追うように、4輪レースへの転向を志し、練習/レース用に何台かの4輪レーシングマシンを所有していた。その内の1台が1961年型クーパーT53クライマックスであり、これが後にホンダのもとに渡り、初期のF1開発に有形無形の財産となった。
ボブ・マッキンタイヤ(Bob McIntyre)

 イギリス国内の2輪レースで活躍した後、2輪世界選手権ロードレースにデビュー。1953年にGP初入賞を果たし、以後350/500ccクラスのライダーとして活躍。1955年にGP初優勝して一気にトップライダーに仲間入りした。

 そんな彼を一躍有名にしたのが1957年のマン島TT500ccクラスのレース。マッキンタイヤはジレラを駆り、史上初の「オーバー・ザ・トン(レース中の平均時速100mile/h突破)」を達成。レース史にその名を残すこととなった。当時、90マイル後半に達していたマン島の平均速度で、誰が初めて100mile/h以上を達成するかが、チャック・イエーガーの音速突破(1947年10月14日。ベルX-1によって達成)と同じように世界中の注目を集めていた。

 

トム・フィリス(Tom Phillis)

●1959年シーズン終了後に、みずからホンダに手紙を書いて乗車希望を伝えたフィリスは、マン島で最終的な打ち合わせの後ホンダチームに加入することとなった。GPでの名声はまだ未知数のライダーだったが、ブラウンと同じオーストラリア出身で、国内レースではブラウンを下したこともある経歴をもっていた。特に努力家として認められ、勤勉に練習走行を繰り返し、またマシンの細かい部分にも気を使うライダーとしてみるみる成長をとげていった。

 小柄なライダーとして主に軽量級で活躍し、1961年開幕戦のスペインGP125ccクラスにおいてホンダによるGP初優勝を達成し、またこの1961年には初めての世界タイトルも獲得し、ホンダのレース史にその名前を刻んだ。しかし、惜しくも1962年のマン島350ccクラスに出場中転倒し、帰らぬ人となった。

 ホンダマシンによる通算優勝回数6回(125ccクラス4回、250ccクラス2回)、世界選手権タイトル1回、獲得。

ボブ・ブラウン(Bob Brown)

 契約に至らなかったハートルの紹介でホンダチームに加入する事になったのがブラウンだった。350、500ccクラスにノートンマンクスを駆って出場していたブラウンは、プライベートながらサーティースやゲイリー・ホッキングなどのすぐ後ろを走れるトップライダーであり、自らもさらなる可能性を求める好漢だった。

 もともとプライベートで自分のマシンのメンテナンスなどもこなしていただけあって、マシンセッティングの知識も豊富であり、ホンダのマシン開発にも多くの助言を与えている。また不慣れな日本人ライダーには、コースの取り方からライディングに関わるあらゆるアドバイスを惜しまず、ホンダ初期のレースを支える大きな存在となった。

 しかしこの1960年、第5戦西ドイツGPのプラクティス中、他のライダーと接触し転倒、不帰の人となった。このため、記念すべきホンダ初の外人契約ライダーとしてGPを走りながら、その参戦はわずか4戦に留まっている。

ジョン・ハートル(John Hartle)

 外人ライダーとしてホンダと最初に具体的な接触を持ったのがハートルだった。しかしハートルはモービルと契約しており、カストロールを使うホンダとは契約に至らず、ホンダの申し出で別のライダーを紹介してもらうことになる。それがハートルと親しかったボブ・ブラウンだった。

マウンテンコースに変更

 1959年のマン島初挑戦時には1ヵ月もの合宿をおこなってマン島クリプスコースに慣れたホンダチームだったが、1960年シーズンにはフルコースのマウンテンコースが全クラスに使用されることとなり、過去の経験はまったく通用しない結果となってしまった。そこで、ライダー側からの要望もあり、ホンダは外人ライダーを起用することとなる。また1960年はマン島だけでなく各国を転戦する予定であり、すでに各国のGPを経験している外人ライダーが大きな力となることは明らかだった。

彼らの鋭い観察眼

 モータースポーツとモータリゼーションの生みの親であることを自負するイギリスでは、ホンダのGP参戦にさまざまな論評を加えていた。1959年の初挑戦時にはすでにエンジン内部の構造を細かく分析し、その精巧さや模倣のなさなどを指摘。しかし操縦性の劣悪さや各部の稚拙な作りもしっかりと指摘することを忘れてはいない。

 さらに、ホンダがやがてGPを席巻するであろうこと、またその影響で世界の2輪市場がどのように変化してゆくかまでを分析し、戦勝国イギリスの凋落と敗戦国イタリア、ドイツ、日本の成長を皮肉を込めながら論評する記事などもみられた。

 また、ジョン・サーティースがホンダに高い評価を与えたことにからめて、ホンダが将来4輪(F1など)に挑戦し、2輪4輪両方のタイトル獲得も夢ではないと、読者の想像力をかきたてる特集なども組まれている。1960年時点でホンダ社内のF1計画はまったく具体化されておらず、そのイマジネーションの鋭さにはあらためて驚かされる。

1960年をもって2輪から引退したため、ホンダRCとの直接的な対戦はなかったが、後にホンダF1に乗車したことから日本でのファンも多く、2輪イベントなどではRCを駆ってその勇姿を披露したこともある。現在でも各国のクラシックイベントなどに参加し、現役時代と変わらない、顎を引いたリーンウィズの美しいライディングフォームを披露している。1934年2月11日生まれ。
ジョン・サーティース(John Surtees)

 戦後、イギリス国内で2輪レースの頂点を極めたサーティースは1954年から世界選手権ロードレースへの挑戦を開始。早くもGPでの勝利を手中にするとともに、一躍GP500ccクラスのトップライダーに躍り出る。1956年にはMVのワークスに迎え入れられ、すぐさまシリーズチャンピオンを獲得。ジェフ・デュークに続くイギリスレース界の代表選手として栄光のキャリアを積み重ねていく。

 しかし、1960年シーズンに7つめのタイトルを獲得すると、彼は4輪への転向を発表。惜しまれながら2輪のサーキットから去ったサーティースだったが、その後F1でも大活躍を見せ、2輪時代に勝るとも劣らない人気と栄光を手にした。1964年にはフェラーリのドライバーとしてF1のチャンピオンとなり、2輪4輪両方のタイトルを持つ唯一の存在として「Master of Motorsport」と呼ばれている。

 

GP参戦にかける熱意

 その熱意は、マシン開発の過程を見れば一目瞭然だった。王者MVにしても、年度が変わっても基本設計に大きな変更はなく、モディファイもしくは小変更が主流だった。当時じわじわと戦闘力をアップしていたMVにしても、基本設計を変えずに毎年2馬力程出力をあげていたようで、全くの新設計エンジンを惜しみなく投入するホンダの手法は、GP関係者の度肝を抜くに相応しいものだった。なにしろ350、500ccクラスなどでは単気筒OHVは当たり前。未だ戦前の基本設計の改良モデルさえ実戦を走っている時代だった。

マン島TTが緒戦

 マン島挑戦2年めを迎えたホンダチームは、この年からGP挑戦を開始したスズキチームと同じ飛行機でマン島へ渡った。ドルの確保など国内的にもまだ多くの問題を抱えていたレース関係者は、ホンダとスズキの合同チームを「Team Japan」とし、全日本チームの名目を与え、マシンテストではホンダの荒川テストコースを使うなど、まさに手に手を取っての渡欧だった。

 マン島初挑戦をはたしたスズキチームは、エースライダーの伊藤光夫こそ練習中に転倒/欠場となったが、松本聡雄15位、市野三千雄16位、伊藤の代わりに出場した地元ライダーのレイモンド・フェイが18位となっている。

 その後スズキはめきめきと実力をつけ、主に軽量クラスで大活躍。50ccクラス創設年からタイトルを獲得し、1963年には伊藤光夫が日本人初のマン島TTウィナーになるなど、日本製2ストロークの名を世界に広めることとなった。

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