第10話 チャレンジ(F1)
マシンの紹介
RA271 RA272 RA273 RA300 RA301 RA302
RA302
RA301
『レ−シングの源流』のメニュ−へ

 レースの世界、それも最も厳しいF1の世界に“もし”はない。しかし、もし仮に、RA301に集中していたら、もしくは、空冷のRA302計画がもう少し着実に進行していたら、結果は違うものになっていたはずだった。しかし、現実はそうならず、ホンダはF1GPの場から去ることになった。

 中村良夫は、限られた時間と予算と人員を最も効率よく動かしてF1GP に勝つことを目指していた。それは現実的で極めて可能性の高い方法だった。一方、本田宗一郎は、空冷エンジンに理想郷を求めたが、空冷3リッターF1計画は失敗に終わった。時を前後して、空冷を世に問うために巨額の開発費を投入した小型市販車、『ホンダ1300』も、理想郷に近づくことはできなかった。本田宗一郎は破れたのである。

 しかし、宗一郎は、常識を覆して過去にないものに挑戦することで、ホンダという自らの会社を他とは違う存在として位置づけようとした。それは可能性を云々する前に、極めて強いエネルギーに支えられた情熱だけが成せる業だった。宗一郎の命令に疑問を持ちながらなお、エンジニアたちも、『未来』という夢に向けて、ほとばしるエネルギーをぶつけていたのだ。

 1968年にホンダがF1で残した結果には合格点が与えられなかった。だが、事実として残った成績の裏側に、激しい波動の余韻を感じることができる。ホンダのF1活動を休止させることになったふたつの勢力は、対局の形に見えながらその裏側で、予断なき意志をもってより高い世界にチャレンジするという方向性とエネルギーの大きさにおいて、まったく同じ方向を向いていたのだ。

 本田宗一郎も中村良夫も冥界に旅立ったが、彼らのチャレンジングスピリットのきしる音が、甲高いホンダ・ミュージックとともに、心の中でいつまでも響き続けているのである。

中村は、想像さえできなかった本社からの突然の指示に頭を悩ませたが、本社命令である。「フランスGPにデビューさせるように」という指示に従わないわけにはいかず、監督として、フランスGP主催者であるノルマンディ自動車クラブに、デビッド・ホッブスの名でセカンドカーのエントリーを申し込んだ。しかし、幸か不幸か、すでに締め切りははるかに過ぎており、エントリーは却下された。シルバーストーンテストで、サーティースとともに、走り出して数周でオーバーヒートしてしまうRA302が、とてもレースをできる状態ではないことを確認していた中村は、フランスGPが行なわれるルーアンのプラクティスで、サーティースに数周走らせてお披露目とし、その後については改めて検討することにすればよいと考え、それを東京に連絡してルーアンに向けて出発した。しかし、東京サイドは納得しなかった。

 中村は、フランスGPが行なわれるルーアンに到着して再び驚くべき事実を知った。東京が現地法人のホンダ・フランスを政治的に動かし、ノルマンディ自動車クラブの親組織であるオートモビル・クラブ・デ・フランスの圧力で、フランス人であれば、という条件付きでRA302の出走許可を取りつけていたのだ。こうして、ベテランだがグランプリ経験のほとんどないフランス人ジョー・シュレッサーのドライブで、満足なテストもしていないRA302はグランプリにデビューすることになった。

 最初こそ確かにパワーもあり、軽さを生かして鋭い加速をした。しかし、数周走るだけでオーバーヒートするエンジンでは、セッティング以前の問題だった。そういうマシンでレースをすることを止められなかった中村は、自らの無力さを知り、即刻チームを解散してロンドンに帰ることを考えた。しかし、サーティースに止められて思い直した。今後は改めて考えることにして、とにかくここに来ているのだからルーアンは走ろう、とサーティースは中村を説得した。中村はそれに従うことにした。

 中村は、RA302をトレーラーごとフランス組に渡した。自身はサーティースの乗るRA301に集中することにし、RA302には直接の責任は持たないことを明確にしたのだ。しかし、シュレッサーには、茶番と中村が思った状況の責任はない。シルバーストーンのテストで確認した最低限のアドバイスだけはすることにした。シュレッサーも、久々のグランプリを楽しみたい、と無理をしないことを約した。しかし、結果は最悪なものになった。シュレッサーが走ったのは、雨のレースの僅かに2周だけだった。コースを外れて炎上したシュレッサーとRA302は、スタッフの前に二度と戻ってくることはなかった。

 ホンダはその後、残る6戦を戦ってF1GPを休止することを決めた。空冷のRA302は、その後も鈴鹿でテストや9月のイタリアGPのプラクティスなどで何度か姿を見せたが、最後までオーバーヒートは解決しなかった。タイトルを奪うべく鋭意準備されたRA301と、それを無視する形で宗一郎が強引に推進した破天荒とも言えるRA302。ふたつの勢力に分裂した形のホンダは、自らの可能性を断ち切ってしまったのだ。ホンダの『第一期F1活動』はこうしてエンディングを迎えたのである。

 「3〜4ポイント稼ぐつもり」(中村監督)だった南アフリカGPは、燃料コレクタータンクのゴミのせいで8位、無得点で終わった。この成績は、ホンダの1968年を暗示しているようだった。最初のつまずきは、ローラの下請け工場のサボタージュで、ニューマシンのRA301の完成が3週間ほど遅れ、熟成の時間を短縮しなければならない事態が起きたことだった。それでもスペインGPまでの1ヵ月の間に、それなりの算段は付けられそうだった。しかし、南アフリカGPから帰国した中村はがく然とする。彼らの青写真と全く違う方向に、研究所が動いていたのである。

 中村は、空冷エンジン計画は妄想に終わると読んでいた。他の技術者も同じ考えだった。したがってRA302は、単なる研究テストの域を出ず、いずれ水冷エンジンへの変更を余儀なくされる程度のものだと信じていた。しかし、宗一郎はそうは考えていなかったのだ。中村は、研究所の勢力のほとんどが空冷のRA302に回されていることを知った。本線であるはずの『水冷RA301組』は、限られた範囲でしか作業を進めることが出来なくなっていた。当初の予定が、徹底的に遅れることが見えた。

 2月中旬、改良型のRA273Eエンジンはようやく形になった。だが、本線から外された開発作業は思うに任せず、トラブルが続出した。いたずらに過ぎる時間の中で一進一退にジリジリする毎日だった。3週間遅れていたシャシーは、すでに完成して日本に届いたが、同行したイギリス人メカニックは、ホンダのエンジニアから、声がかかるのをひたすら待つだけだった。徹夜の連続で、最後までまとわりついたトーションバーの折損トラブルを解消するための単体テストが繰り返されていた。エンジンが完成したのは3月末。1ヵ月半予定していた鈴鹿のテストを僅か3日(!)で切り上げ、真新しいRA301はスペインGPに向けて発送されることになった。

 スペインGPのスケジューには間に合った。しかし、僅か3日のテスト、それも本来のパワーが出ていないエンジンだったため、本番用の440馬力で走り始めると、早速不具合が出始めた。フル加速で燃料が偏り、燃料切れの兆候を示すのだった。テストが短縮されなければ確認できた初期トラブルだった。こうして、小さいが煩わしいトラブルに悩まされるホンダの1968年は始まった。

 シーズンが始まってしまえば、レースは1週間置きにやってくる。英国基地までの往復を考えれば、レースを消化するだけでも手一杯。スタート時点で基本的問題がクリアしていないマシンやチームに微笑むほど、グランプリレースは甘い世界ではなかった。5月12日のスペインから、モナコ、ベルギー、オランダと、きっちり1週間置きのレースを戦ったホンダは、シーズン前に済ませておくべきテストをそこでようやく終えたのである。準備期間を終えたRA301は、いよいよ本来の活躍を始めるはずだった。

 しかし、英国スラウを基地とするホンダ・レーシングのそうした見込みとはまったく別の次元で、日本の研究所は進んでいた。RA302が完成し、フランスGPに向けて空輸されることになったのだ。

1964年にF1GPへの挑戦を開始したホンダは、4年目の1967年をシリーズ4位で終了し、僅かな期間でシーズン中に急造したマシンでイタリアGPに勝ったことで自信もつけていた。1967年イタリアGPの勝利は、1968年のワールドチャンピオンを争うためのシナリオが、静かに、だが着実に進み始めたことを感じさせる勝利だったのだ。

 藤沢副社長からの経費節減の要請を受けて、チーム・サーティースのガレージの半分を使った英国基地を拠点として、身軽なレースを始めたそのデビュー戦に、急造のRA300で優勝した。シャシーをさらに磨き上げ、重いが絶対的なパワーを誇るエンジンを、徹底的に見直して軽量化することで、挑戦5年目の1968年はライバルの優位に立てる見込みをつけることができていたのだった。

 戦力となるマシンも、RA271に始まる4年間の戦いで得たノウハウを生かして、充分な戦闘力を持つ構想が固まっていた。本業に力を入れるために、F1チームはすでに1967年シーズンから大幅な経費節減を言い渡されていたが、それでもシリーズ4位に食い込んだのだ。その勢いに乗ってF1GP挑戦の集大成としてRA301を準備し、1968年シーズンを迎える手筈を整えていた。

 中村良夫は、サーティースと検討した青写真を元に、1968年用のマシンの構想を固めていた。RA300を突貫工事で造り上げた1967年8月には、RA300の設計担当の佐野彰一に続いて久米是志を英国に呼び、パワーを誇っていたRA273Eの実績をベースにした軽くコンパクトなV12の構想を進め、コスワースDFVに一泡吹かせる心づもりだった。かつてジャガーEタイプやクーパーF1の主任設計者として実績を持つデリック・ホワイトとともに、RA301と呼ばれるはずの1968年用マシンの構想は、RA300が完成した1967年9月にはすでにでき上がっていた。

 一方、軽自動車のN360の成功をベースに、4輪生産車部門も、同じく集大成となるべき普通乗用車、『ホンダ1300』に向けて動き出していた。生産車とF1。別々の動きに見えたそのふたつは、実はひとつの根幹でつながっていた。その根幹とは、社長の本田宗一郎の頭の中にあった理想郷、バイクの世界で圧倒的な技術を身につけた空冷エンジンである。しかし、この理想郷こそが、1968年シーズンのホンダの前に、大きな壁となって立ちはだかることになる。事態は、まったく別の方向に向かって進むのである。

 コンパクトV12エンジンの構想が、空冷を推進する宗一郎社長の一喝で実現不可能になったのだ。シャシーだけなら英国基地独自の力で形にすることはできるが、試作のエネルギーと膨大な研究施設を考えると、それを要求するレーシングエンジンは、和光研究所の協力なしではでき得なかった。中村とサーティースが立てた計画は、初期段階で暗礁に乗り上げてしまった。もはや、コンパクトV12を造る夢を捨てて、RA273Eにできる範囲で改良を加えたエンジンでいくしかなくなった。

 それでも、RA273Eエンジンは重いとは言え、強力なパワーは知られるところだった。不安定でデリケートな噴射量調整を要求する低圧燃料噴射方式を、安定した高圧タイプに変更することで、特に中速域での安定性を向上させれば、ライバルに互して戦える活路が見いだせた。最初の予定からすれば後退は明らかだったが、なんとか優勝を争えるマシンを造り上げる自信があった。そのRA301のデビューは、5月のスペインGPに決まった。

 宗一郎の命令と指揮によって、すでに空冷の実験マシンとしてのRA302プロジェクトは、RA301の開発と並行して始めていたが、中村もサーティースも、それは1969年に備えたアドバンスモデルのはずであり、「いずれ空冷はモノにならないが、斬新なシャシーは、1969年のテストベッドとして無意味ではない」と考えていた。

 RA301は、英国でシャシーのベースを作り、それを1968年1月に日本の研究所に持ち込んでエンジンとトランスミッションを載せ、最終調整をしながら2月早々に組み立てを終了。2月中旬から1ヵ月半ほどの熟成テストを鈴鹿で行なって、4月初旬のヨーロッパラウンドの緒戦、スペインGPでデビューさせるという予定が立てられた。ホンダ・レーシングとしてのデビューは、1968年の開幕戦、南アフリカのキャラミであり、年が明けたばかりの1月1日のそのレースには、RA300を出場させ、並行してRA301の開発が急がれていくはずだった。

1968
「レーシング」の源流