1981年 講談社発行の「われらがスズキ・モ−タ−サイクル」から引用したものです。
ただし、史実と異なるところ、及び誤りも多々ありましたので、削除・修正も行いました。
 1907年に開催された第1回マン島ツーリスト・トロフィー・レースを源流とする、ヨーロッパの営々たる世界MCグランプリ・レースの歴史は、まさに4サイクル・エンジンの歴史そのものであった。ノートン、マチレス、トライアンフといった、第1回の優勝車をはじめとして、1949年以来シリーズ戦となった世界GPのマニファクチャラーズ・チャンピオン、いわゆるメーカー・タイトルは、はからずもそのすべてが4サイクル・メーカーの.手中に収められ続けてきた。
 1959年、ホンダがマン島に初挑戦をした時も彼らのエンジンは4サイクルであり、レース界には「レーサーのエンジンは4サイクルでなくてはならない」という不文律のようなものさえ存在していたのである。
 しかし、ホンダ出場の翌年、日本からもうひとつのメーカーが、遠く離れたマン島に、小さな4台のマシンを送り込んだ。この時こそ、その後に、「レーサーのエンジンは2サイクル」という現代の公式をつくりあげる発端となった、スズキ2サイクル・マシンの静かなる、世界の檜舞台へのデビューの時だったのである。

記念すべき初優勝(1954

 日本の各メーカーが世界グランプリに挑戦する以前、日本国内における「レース」とは、勿論未舗装路を、それも公道を利用した、世界のレベルとは比較にならないものであった。国内で最初に行われた組織的なレースと呼べるものには、1953年の名古屋TTレース、富士登山レースなどがあるが、当時スズキでは、初の完成車パワ一フリー号、ダイヤモンド・フリー号などの、自転車プラス簡易エンジンの形態をとる、バイクモーターと呼ばれるものを発売したばかりであった。しかし、このバイクでは、かりにも本格的なレースに出場するのは困難であり、記念すべき初のレース出場は、1954年の、コレダCO型の発売をまたなければならない。
 そしてむかえた1954年7月8日の第2回全国富士登山オートレース。90ccまでのモーターバイク・クラスに出走した、山下林作は、発売されて間もないコレダCO型を、見事優勝に導くのである。この時こそ、その後に幾多のタイトルを奪取する、スズキ・レース活動の記念すべき幕明けの時であった。

暗中模索の浅間レース(1955〜1959)

 しかし、その後の国内レースにおいて、スズキは決して満足のいく活躍を見せたとは言いがたい状態であった。
 翌1955年、日本のモーターサイクルの発展のうえで大きな役割を果たした、第1回浅間レースが開催されるが、この時“実用車メーカー”であったスズキは「はじめての本格的レースだ、我々も一生懸命やろう」と、完成したばかりの2サイクル125cc−ST1型の改造にとりかかった。
 だがこの当時の技術では、2サイクル・エンジンのどこをいじればパワーが出るのか、ましてや排気管をどんな形にすればよいかなどという点は、まったくわからず、実用車的考え方から、とにかく丈夫な、こわれないマシンをつくることが第1とされた。それでも完成したSTレーサーは、市販STの3段ミッションを4段とし、出力も5.5psから9ps?に近い数値をかせぎ出していた。しかしレースは、膨大な練習量を誇るヤマハにその行く手をはばまれ、5、6、7位という成績に終わる。その頃、マン島TT出場を発表していたホンダはそれにつづく9、10位となり、その後の1960年代の世界GPにおける、日本車黄金時代の主役となるメーカーは、この時すでに肩を並べていたのである。
 そんな中で、とりあえず参加した第1回浅間に優勝できなかったスズキは、「わが社は実用車メーカーであり、レースに関心はない……」という不本意な声明を残し、その後3年間、浅間に足を運ぶことをしなかった。

 だが、次第に高まっていく浅間レースの気運の中、社内の何人かのエンジニア達は、ひそかにレーサーに対する研究をつづけていたのである。社内ではレースに対する議論が百出し、やるやらないでもめにもめていた頃、すでに新型マシンの図面が引かれていた。そして1958年、社長の命により、翌1959年の第3回浅間レースへの復帰が決定されるや、秘密裏に進められていた作業は一挙に活気づき、クランクの焼きつきなどに悩まされながらも、新型コレダRB(2サイクル単気筒125ccピストンバルブ)を完成させる。これは実用車メーカーとしての色彩が強かつたスズキを一挙にその枠から脱皮させるものであり、エンジニア達もかなりの自信を胸に秘めて浅間に乗り込んでいくのであった。

浅間の敗北、そして突如マン島へ(1959)

 表彰式で掲揚される社旗を胸に忍ばせながら絶対の自信の中でおもむいた浅間では、マン島に初出場を果たしたばかりのホンダが順調にタイムを伸ばしていた。しかしスズキのRBは、そのタイムをわずかながら上まわる練習タイムを出し、レース担当者は内心ほくそえみながら決勝当日を待ったのである。
 そしてむかえた決勝レース、天は彼らを見放したかのようであった。未経験の豪雨後のレース、練習不足による転倒、プラグかぶり、ガソリンもれと、まさにレースに対する経験不足が表面化し、レース前半をリードしたものの、次々と戦列から脱落し、最後に残ったのは市野三千雄の5位のみであった。
 レース前の絶対的な自信を、キャリアのなさ、そして雨に対処するだけの準備もないまま、無惨な結果に終わったスズキ・チームの面々は、誰もが 「もう再びレースをすることもあるまい」と考えながら、どん底にたたき込まれた心境で碓氷峠を下った。4年ぶりのレース復帰は、まさに決定的な打撃さえも彼らに与えていたのである。

 だが、その彼らにとって青天のへきれき、思いもよらぬ知らせが舞い込んでくる。それはこの1959年の年の暮れ、浜松から汽車に乗り込んだ社長が偶然にもその車内でホンダの本田宗一郎社長と顔を合わせ、「あんたのところのレーサーはえらく走るが、外国へ出してみたらどうだろう」と持ちかけられたことに端を発していた。この言葉に、社長は落ち込んでいた意気を取り戻し、一転「来年、我々もマン島に行こう」と、社内の気運を盛り上げる一大決定を下したのであった。
 しかし現場のエンジニア達はてんやわんやであった。なにしろ誰もが「もう2度と・・」と考えていた矢先の決定である。
 1960年、正月休みをも返上して再開されたレーサーづくりは、まず浅間での問題点の洗い出し、そして単気筒から、より高回転高出力を狙ったツインエンジンの設計と、すべて1からはじめられた。急ピッチの作業の中で、春の声を待たずしてRT60(2サイクル並列ツイン125ccピストンバルブ)は完成した。

マン島初挑戦(1960)

 完成したRT60は、44×41mのボア・ストロークを持つ空冷エンジンで13ps/11000rpmを発揮したが、それは当時トップレベルのイタリアのMVは20ps前後といわれており、あまりにも非力なものであった。そして、高速走行のテストコースを持たないスズキは、ホンダの好意により荒川のテストコースを借用して、テストを行ったりもした。
 当時、世界のレーシング・マシンの主流は、否むしろそのすべてが4サイクル・エンジンであり、手本にする物どころか、何をどうすればパワーが上がるのかさえわからないのが現実だったのである。
 そんな中で、出力向上のカギを排気膨張管すなわちエキスパンション・チャンバーに見い出しはじめてはいたが、時すでにマン島出発の直前、タイムリミットがおとずれていた。
 急ぎ送り込んだ3台のマシンによるマン島初挑戦は、松本聡男15位、市野三千雄16位、練習中に負傷した伊藤光夫のかわりのR・フェイが18位という成績でしかなかった。
 マン島で宿泊したファンレイ・ホテルでは、そこの主人に「まず最初の年は勝つことなど考えずコースを勉強しなさい。そして2年目は前の年に勉強したことを帰って復習して、こうあるべきだと考えたことをやって来なさい。そして、3年目は、勝たなければいけない!」とたしなめられ、また4、5位に入賞した東ドイツのMZ(これも2サイクル・マシン)の走りから得たヒント、そしてはじめて使っシェルのオイルなど、現地でなくては得られない数々の具体的なノウハウを手にしながら帰路についた。

不調のシーズン、そしてひとつの出会い(1961)

 新型ロータリー・ディスクバルブ吸入並列2気筒のRT61を持ち込み、同じくロータリー・バルブ2気筒の250ccRV61も投入した1961年のシーズンも、スズキにとってかんばしくない成績だけが、その記録表に書き込まれていった。
 125ccではオランダGP、ベルギーGPでの14位、250ccではこの年チームに加わったイギリス人パデイ・ドライバーのベルギーGP7位が、この年の最高位だったのである。問題は、絶対的な出力の不足と、マグネトーを駆動するアイドルギヤの耐久性にあった。そしてシーズン後半に入る東ドイツGPを目前にして、一行は不本意にも「計画を変更して帰国する」というところまで追い込まれていたのである。

 だが、この年、彼らが得たもっとも大きな成果は、ある1人の友人を得たことでもあった。エルンスト・デグナー。東ドイツ2サイクル・マシン MZ で奮闘する彼は、偶然2年つづきで同じ宿であったファンレイ・ホテルで、次第にスズキ・チームの面々と言葉をかわすようになっていくのである。
 共産圏東ドイツ出身のデグナーは、マシンの性能こそ今ひとつだが、活気に満ちあふれたスズキ・チームを、ひそかにあこがれの目で見ていたのである。そしてたびあるごとにスズキ・チームを訪れ、次第に彼の内部では、その後に世界中を驚かせる“決断”が固まっていったのであつた。
 そしてその決断は、1961年シーズン終盤のスエーデンGP終了直後、亡命という形となってあらわれた。スズキとの契約交渉も順調に進み、11月中旬、ひそかに来日したデグナーは来シーズンのスズキとの契約をすませ、12月下旬、再来日。弁天島浜名湖畔にあるコレダ荘に身をおいて、翌62年シーズン用マシンの製作に協力を惜しまなかった。

1本の排気チゃンバー(1962)

 1962年世界選手権レ−スには、新たに50ccクラスが加わり、スズキは50cc(ロータリー・バルブ単気筒RM62)、125cc(ロータリー・バルブ単気筒RT62),250cc(ロータリー・バルブ2気筒RV62)の3クラスに挑戦することになる。
 あわただしく送り込まれた3クラスのマシンは、第1戦スペインGPを、50cc7位市野、11位伊藤、15位デグナーという成績で終わり、125ccと250ccはともにリタイアであった。この時、チーム監督の岡野武治氏は、その後のレース活動を、いくらかでも光明の見えた50cc中心とし、特に250ccは、メカニック不足などから一時出場を中止することとする。そしてその頃、3シーズン目に入った本社工場の片すみでは、1本、また1本と、寸法や形状を変えたエキスパンションチャンバーが製作され、テストベンチに備えられたエンジンに装着されては、その出力を測定する作業がつづけられていた。
 ロータリー・バルブ吸入により、吸入効率は格段の向上を見せていたが、このチャンバーがネックとなり、いまだ満足のいく出力は出せていなかったのである。10本、20本、30本と部屋の片すみに山積みされていくチャンバーを見つめながら、もはや執念とも言える作業はつづけられ、トラブルの整備で眠るひまさえない遠征隊と、本社の実験班は、遠く離れた地で、ともに夜を徹した作業をつづけていたのであった。
 そして、山積みにされたチャンバーが百本を越えた頃、実験中の50ccエンジンが、突如としてそれまでの8ps前後の出力から9ps余もの数値をたたき出すのである。空気という目に見えない、そして非常に弾力性に富んだ物質を相手の実験は、まさに雲をつかむようなものであったが、執拗なまでのチャンバーの形状追求は、ついに大幅なパワーアップを実現したのである。しかし喜んでいるひまはない。第3戦、最大のイベントであるマン島TTは目前に追っている。
 そこで本社の実験姓は、パワーアップに成功したエンジン、チャンバーをそのまま梱包し、「ばらさず、このまま使用せよ」という注意書きをそえて遠征隊に空輸したのであった。
 そして送られた1台のエンジンは、デグナーに、チャンバーは伊藤、市野に与えられ、すぐさま公式予選の時をむかえた。その結果は、誰もが予想し得なかったデグナーの予選タイム1位であり、マン島3回目のチャレンジとなるチームの全員は、濃い霧の中から抜け出したようにコースを見つめるのであった。

マン島初優勝、50∝メーカー・タイトル(1962)

 むかえた50cc決勝レース、一挙に 1ps余もの出力アップを果たしたスズキRM62は、クライドラー、そしてホンダのマシンを蹴ちらし、2位に18秒もの大差をつけて、はじめて栄光のチェッカーフラッグを受けたのである。この時英国の「ザ・モーターサイクル・ニューズ」は以下のようにこの優勝を報じている。「金曜日、50ccクラスのレースがスタートした時、歴史はつくられた! すべての批評家はあまりに素晴らしい記録に沈黙するばかりであった。6月8日に樹立された記録は誰一人として予想しなかった史上空前のものであり、2サイクル・レーサーが優勝するのは1938年のDKW以来実に25年ぶりである」。またAP電は「優勝したこの小さなマシンは直線で実に144・84km/hの最高速をマーク。4サイクルが優勝すると予想していた専門家達の考えは見事にくつがえされた」と興奮した外電を伝えたのである。
 スズキ・チームが世界GP挑戦を開始して3年目、ホテルの主人の言葉どおり、3年目にして得た初勝利であった。
 そして、その後のオランダGP、ベルギーGP、西ドイツGPと、デグナーは破竹の4連勝という、まさに信じられない大活躍を見せ、途中アルスターGPの125ccで負傷、東ドイツGPの不出場にもめげず、最終戦アルゼンチンGPではチームメイト、ヒユー・アンダーソンの援護射撃もあって、はじめて世界選手権となったこの年1962年の、50ccライダー、メーカー両タイトルを手中に収めたのである。
 だがその一方、王者ホンダが欠場したアルゼンチンGPでの優勝を除いて、オランダGPでの4位が最高位の125ccクラス、またシリーズの半分ほどを欠場した250ccでの最高5位(オランダ)という結果は、翌63年のシーズンをひかえたスズキ・チームにもうひとつの緊張をもたらし、この年11月に行われたスズカでの第1回全日本選手権ロードレースでの50cc、125cc両クラス、ホンダにつづいて2位という成績は、チーム全員の気持ちを引き縮めるのに充分すぎるものでもあった。
 そしてその緊張感は、すぐさま実験室に具体的な形となってあらわれ、翌シーズン用のマシンは、一刻の時をも惜しんで開発、実験が繰り返されていくのであった。

50cc、125cc両クラスを制覇(1963)

 翌63年、50ccRM63は引きつづき行われたパワーアップにより 11ps の出力を発揮。これに合わせて、ミッションをそれまでの8速から9速に増やし、13000rpmという高回転での狭いパワーバンドに対処する。
 また125ccRT63は、高回転化による決定的なパワーアップをはかるため、同じロータリー・バルブの並列2気筒エンジンを新開発。これにより、それまで20psだった最高出力は、一挙に25ps余にまで高められ、こちらもミッションの段数を1速増やした8速とする、両クラスでの大手術が行われ、50cc2連覇、125cc初タイトルという目標に向かって、チームの意気は最高に盛り上がっていくのであった。
 そして開幕戦スペインGP。その闘志がから回りしたのか、50cc2位、125cc7位に甘んじたスズキは、第2戦西ドイツGPに万全を期して出場。50ccではヒユー・アンダーソンの優勝を筆頭に2、3、5、6位を独占。125ccでもエルンスト・デグナーが優勝しアンダーソンが2位に入るという快進撃を開始したのである。
 その後の成績は、まさに疾風怒涛そのものであった。50ccは第3戦フランスGPでクライドラーのハンス・ゲオルグ・アンシャイトに一矢を報われデグナーが2位となるが、つづくマン島TT、オランダGP、ベルギーGPと連覇し、それもその表彰台をほとんど独占するという大活躍。一方新型ツインを投入した125ccでは、第2戦西ドイツから、不参加のイタリア、アルゼンチンGPを除く日本GPまでの9戦すべてに優勝するという、まさに破竹の進撃を見せるのである。
 勿論、両クラスともに最終戦を待たずしてメーカー.タイトルを決定したのであるが、その喜びの中で息ひときわ輝いたのが、伊藤光夫によるマン島TTレース日本人初優勝という快挙であった。その頃スズキ本社では、レース明けの月曜日の朝には、その速報が玄関前に貼り出されていたが、1963年6月15日月曜日、記念すべき伊藤の初優勝に、出社した社員はその玄関前で喜びに包まれ、黒山の人だかりができたのである。そして時は、日本製レーシング・マシン全盛の、栄光の60年代中盤をむかえようとしていた。

新たなる苦闘のはじまり(1964)

 50cc(2年連続)、125cc両クラス制覇という輝かしい成績を残した63年シーズン、かたや不出場をつづけていた250ccクラスには、最終戦日本GPに2サイクル水冷スクェア4ロータリー・バルブという、前代未聞の怪物マシンをデビューさせ、一気に起死回生をはかろうとした。しかし巨大化したエンジンは、車体の大型化、操縦性の悪化をまねき、また50ps以上の高出力を発揮するエンジンは、反面膨大な発熱量、エンジントラブルという問題点を露呈し、出場するレースのほとんどにリタイア、最高3位という成績に甘んじなければならない、苦しいシーズンをむかえていた。
 一方、50ccクラスでは、アンダーソンが好調の波に乗り、前年の最終戦にデビューしたホンダの2気筒マシンに手こずりはしたものの、3年連続のメーカー・タイトルを決定。しかし125ccクラスは、これまた前年の最終戦にデビューしたホンダの4気筒マシンの前に屈し、前年の快進撃から一転、わずか4勝にとどまり、ホンダにメーカータイトルを明け渡す結果となってしまう。
 問題は、やはりマシンの競争力、開発力であった。前年軽量クラスに惨敗をきっしたホンダは、その雪辱をマシンの改良によって果たそうと、それまでに例を見ない新型マシン攻勢をかけてきたのである。
 これに対するスズキは、全体的な出力向上こそは見られたが、決定的な性能向上のないまま64年シーズンを戦いつづけていたのだ。まさに技術は日進月歩そのままであった。
 そしてこの苦闘のシーズンの中から、翌65年型の、まったく新しい2クラスのマシンが生まれようとしていた。
 50cc用には、水冷、そして2気筒、ボア・ストロ−ク32.5×30mという、14.5psの最高出力を発揮するRK65を、125cc用には、これまた水冷2気筒ボア・ストローク43×42.6mm、最高出力31psというRT65を、翌65年シーズン用として開発していたのである。

戦いの日々の中に(1965〜1966)

 水冷ニュー・マシンRT65を投入した125ccクラスでは、12戦中2戦を落としたのみで、スズキの完勝。これでこのクラスは63年につづいて2度日のメーカー・タイトル、アンダーソンは63年の50cc、125cc両クラス、64年の50ccにつづいて4度目のライダー・チャンピオンとなる。
 だがツイン・エンジン同士の戦いとなった50ccクラスは、思いもよらぬホンダの好調に苦しめられる。第1戦スズキ、2戦ホンダ、3戦スズキ、4戦ホンダと、シーソーゲームをつづけていたこのクラス、問題の第5戟マン島TTで、スズキは思わぬ不調におちいり、アンダーソン、デグナーが2、3位となるも、この頃すでに世界の一流ライダー達と肩を並べるまでに成長していた伊藤、市野のふたりが相ついでリタイアするという番狂わせ。つづく6戦オランダGPもホンダに刺され、後のないスズキは7戦ベルギーGPでデグナー、アンデーソンが巻き返す。そして最終戦では再びホンダが優勝。これでメーカー・タイトルはわずか6ポイント差をもってホンダのものとなり、スズキの4年連続制覇の夢は惜しくもくずれさったのであった。そして250ccクラスは、チームの総力を125cc、50ccに注いだため、後半の5戦に不出場となり、この年もこれといった成績を残せないまま終わる。

 つづく66年は、ホンダ旋風の吹き荒れた年であった。この年ホンダは、125ccクラスに5気筒マシンを投入し、必勝の構え。また250ccの6気筒も調子を見せはじめ、50cc〜500ccすべてのメーカー・タイトルを奪取するという猛威をふるい、ヤマハ、スズキにつけ入るすきを与えなかった。なお、50cc の個人タイトルは65年日本GPよりスズキに加入したアンシャイトが辛うじて獲得することが出来た。
 そしてこの年、TTレースを最後にデグナー・ペリスが、最終の日本GPを終えて アンダーソンが、相ついで引退を表明した。

 翌67年にはアンシャイトは、50ccのタイトルを奪回し、50cc4回目のメーカー・タイトルをスズキにもたらすが、時代は、日本の各ワークス・チームがレギュレーション等の関係で世界GPから撤退していく時をむかえ、1968年、アンシャイトが個人出場で得た50cc5回目のタイトルが、50ccクラス最後の記録となった。

 翌1969年、各クラスにシリンダ数、ギヤ段数などの新レギュレーションが適用され、日本製ワークス・マシンがサーキットから姿を消した時、そこに残ったのは、地道な活動をつづけていたヨーロッパの中小メーカーと、遅ればせながら登場した日本製市販レーサーであった。

 そして1970年、ディター・ブラウンが5年ぶりに125ccクラスのタイトルをスズキにもたらし、これが60年代におけるスズキ最後の、合計8個日のメーカー・タイトルであった。
 
 60年代における、スズキの世界GPにおけるレース活動は、まさに苦闘と、栄光と、そして数多くの蓄積の時代であったと言えるだろう。

 そして、1971年、一時の静けさを取り戻した世界GPのサーキットを、ひとりのスマートなイギリス少年が、スズキの125ccプロダクション・マシンによる静かなるチャレンジをつづけていた。その結果は、その頃軽量クラスの王者に君臨しようとしていたアンジエロ・ニエートにつづいて、ランキング2位を得ていたのである。
 このライダーこそ、のちにスズキを500ccクラスの絶対的なチャンピオンに導く原動力となった、バリー・シーン、その人であった。バリー、この年19歳。まだあどけなさを満面にたたえたその表情の中に、誰がその後の活躍を想像し得ただろうか。
 この年、125ccクラスで3回の優勝を経験した彼を、その3年後、ある1台のマシンが純白と青に塗り分けられたその車体を輝かせながら、静かに待つていた。

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1962年デグナー選手権獲得(50cc)のうらに

 第2次大戦後のMC界はモペットやスクーター、つまり庶民の「足」を中心として復興。やがてそれは徐々に大排気量車へと移り、そしてさらに自動車へと発展していった。そんな過渡的な役割りを果たしたモペット・ブームは、1962年からモーターサイクル・スポーツ界に「50ccレース」という置きみやげを残した。スズキ、ホンダはこの50ccレースにすぐさま反応を示し、前年までのヨーロッパ杯の覇者クライドラーに対抗するマシンをつくりだし、レースに参加した。

 62年、GP50ccクラスのレースがスタートした。第1戦は5月6日のスペインGP、第2戦は5月13日のフランスGP、さすが熟成されているクライドラー、12段ものミッションを駆使して、かたや8段ミッションのスズキRM62につけいるスキを与えない。クライドラーの絶対優勢はあきらかだった。

 ところが、第3戦マン島TT、第4戦オランダTT、第5戦ベルギーGP、第6戦西ドイツGPとスズキの RM62 を駆るデグナーが連続してウインナーの座におどり出た。もちろん、その陰にはスズキ本社研究三課の “打倒クライドラー”を目指した研究の成果・・排気膨張管の研究によって、それまで 8ps 前後だった出力が一挙に 1ps余もアップされた・・・があった。が、一方ライダー、デグナーにも第2戦フランスGPを境として何かが起こっていた。

 第2戦のフランスGPはクレルモンフエランで開かれた。コースは登り坂が多く125ccや250ccの大排気量車では問題なく走れてもパワーの小さい50ccでは骨が折れる。長い登り坂にさしかかると、エンジンの回転数がどんどん落ちていく。パワーバンドがせまいため、しまいにはプラグがかぶってエンストしてしまうこともあった。そのため、デグナーは不機嫌になっていた。
 ところが一方の伊藤光夫はというと、同じ登り坂でも一向にエンジンの回転を落とさずに走って行く。デグナーにとって、とても自分と同じマシンに乗っているとは思えなかった。
 デグナーは伊藤光夫にたずねた。「ミツオ、なぜおまえのマシンはあの登り披で回転が落ちないのだ」「それは半クラッチを使っているからです」。デグナーを師として尊敬している伊藤光夫は答えた。デグナーには信じられなかった。
 それまでのヨーロッパのライダーは、半クラッチを使ってクラッチを酷使するような走りはしなかった。しかし、メカニズムにも充分精通している伊藤光夫は、クラッチはそのぐらいの使い方でも充分に耐えることを知っていた。
 それまで、排気量の大きいマシンで非のうちどころのないテクニックを見せた巧者デグナーも、小排気量のマシンには慣れていなかった。しかし、彼はこれを機に小排気量のマシンの走り方をも会得してしまった。この開眼によって、彼のその後の活躍がはじまったということだ。

2小節けずられた『君が代』

 世界GPレースのなかでも、その伝統と権威を誇るイギリス・マン島TTレースは、いわば世界のMCメーカーがそのランキングを決める、MC技術のオリンピックとさえいわれている。このレースに勝つことは「世界を支配する」ことにつながり、ライダーは名誉を、マシンはその声価を国際市場に高めた。

 スズキは、1962年6月8日、金曜日、E・デグナーの駆る RM62 で、見事これに優勝した。その記録は、2サイクル・エンジンのレーサーでは、DKW 250ccの優勝以釆25年ぶり。しかも、ホンダやクライドラーの強豪をおさえて1周29分58秒6(平均時速121.54km/h)のラップ賞も獲得した。その快記録は、イギリスの専門誌「ザ・モーターサイクルニュース」で、「金曜日、50ccクラスのレースがスタートしたとき、歴史はつくられた」と名セリフで報じられたことからも推測がつく。

 翌63年も、クライドラーとスズキのチャンピオン争い、一流ライダー、名手H・アンシャイト、巧者E・デグナー、そして、H・アンダーソン、それに伊藤光夫、森下勲、市野三千雄など日本人ライダーも参加した。
 序盤は、予想通り、アンシャイトがデグナーに必死の食い下がりを見せた。が、安定性を増したRM63は、その差をだんだん広げていった。
 最終ラップになって、伊藤光夫が先にスタートした上位車を追い込んでは抜き去り、やがてトップにおどり出た。文句なしの、自力でのトップ獲得だった。ついに、スズキ念願の「日本人ライダーによる優勝」が実現したのだ。
 1位伊藤光夫、2位アンダーソン、3位アンシャイトの順で表彰台へ、観衆の声援に応えて3人は手を振る。ところが、いつもなら、表彰式がはじまるとバックに流れてくるはずの優勝者の国歌が聞こえてこない。どうしたのかと思っていると、表彰なかばにして、やっと『君が代』の日本国歌が聞こえてきた。タイミングのずれた国歌は、そのために2小節ほどけずられてしまった。
 『君が代』の日本国歌が遅れた理由は、まさか日本人ライダーがマン島で優勝することはないだろうと思っていた主催者例の手落ちで、レコードが用意されていなかったためだった。
 この伊藤光夫マン島での優勝は、その後、日本人ライダー達が自信を深め、士気を高めるのに大いに役立ったという。

幻の3気筒50ccエンジンは実在する

 67シーズン最後のGPは日本GP。前年度に引きつづき富士スピードウェイで開催された。50ccレースは、ホンダが前年同様不出場。スズキの優勢はあきらかであった。このため、出場を予定していたスズキの RP マシン(スクエアタイプの直立水冷3気筒エンジン)は、その必要性がないために、伊藤光夫が公式練習で試走しただけでレースには出場しなかった。

 その後、68シーズンに向け RP68(2階建てクランク方式の、下2気筒が水平・上1気筒が直立シリンダ−の3気筒・強制水冷・14段強制潤滑ミッション) が試作手配されたが、1968年2月21日、
「スズキは、1968年以降の選手権レ−スから撤退する」ことが決定された。この撤退発表後、試作部品が完成した「RP68エンジン」は、テストされることもなく、全くの幻のエンジンとなったのである。

 そして「スズキのGPレーサーはすべて解体され、竜洋のテストコースの土となった」というウワサが流れた。しかし、図面さえあればいつでも再現可能であるし、それに、解体してへたなクズ屋などに流れると秘密がもれてしまう危険性も考えられる。テストコースの土となったかどうかは定かではないが、そのようなウワサの方がスズキとしては都合がよかったのではないかと思われるふしもある。

 ところが、一度も姿を見せなかった 50cc3気筒RP68エンジン・・そのために幻の3気筒と呼ばれていた・・が、実は、元GPレーサーの伊藤光夫によって保管されていたのだ。さっそく聞いてみると、「ウワサどおり、GPマシンはすべて解体されて、どこかに捨てられました。私は残っていたRP68エンジンの部品を集めて組み上げ、3気筒エンジンを再現させたのですが・・・もちろん、エンジン単体だけです。とても回わせるものではありません」ということだった。

 (この現存する「幻の50cc3気筒」の写真はこちらに掲載されていますのでご覧下さい。)

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「われらがスズキ・モ−タ−サイクル」(その1)