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GPライダーの巻(その1)

寿司屋の口ききでホンダ入り

 昭和三十三年、二十三歳のとき、私は本田技研に入社した。八百長事件で選手資格を剥奪された私が、浜松の寿司屋「左ノ一」で包丁を握っていたことはすでに書いた。このとき、この店にはいってきたのが、ホンダのおやじ、本田宗一郎氏と、いまは重役になつている河島喜好さん、それにもう一人、だれだったかの三人であつた。この三人は一見して土建屋ふうであつたし、そのしやべり方もまさしく土建屋ふうであつた。
 この三人はしきりにヤマハをぶっつぶせ″こんどはヤマハに負けられん″ とかいっていた。たしか、この客がはいってきたとき、私は包丁をといでいたように記憶する。そして彼等はうちはクルマが悪いんじやない、乗る奴がいないんだ″と話をしていた。この三人は食う方もよく食い、それだけに話は長くなつた。そこに左ノ一のおやじが口をはさんだ。
 「旦那、オタクの会社では乗り手を捜しているんですか? 乗る奴なら、ここに一人遊んでいるけど……」
 左ノーのオヤジの口ばさみが縁で私は魚屋にならず、ホンダのライダーになつた。縁とは異なものであり、味なものだ。ホンダがプロ選手を自社のライダーにしたのは、大村、藤井が最初で、私が三番目であつた。私は最初正社員という身分であつた。私にサラリーマンの経験がないと思っている人がほとんどだが、実は一カ月だけホンダで勤め人をやった。宮仕えがこれほどしち面倒くさいものとわかったのは入社して一カ月目であつた。
 ある日、私は埼玉県白子にあったホンダの研究所から、仕事のことで外出することになつた。ところが守衛が紙切れに、氏名だの外出理由だのを書けという。オレは会社の命令で外出するのに、その同じ会社の者が何でそんなしち面倒くさいことをいうのか、と守衛とやりあつた。ホンダの社長はそれを遠くから眺めていた。私は守衛にいった。
 「オレはあそこにいるおっさんがきてくれっていうから、この会社にきたんだ。文句があるんなら、あのおっさんにいってくれ」
 私は結局、その紙切れには何も書かず、外出してしまった。この跡始末をやってくれたのはホンダ・チームの主将であったギッちやんこと、いまは亡き鈴木義一で、彼がホンダのおやじとの間に立って、私を嘱託社員ということにしてくれたのだ。

よくころび、よく落車、走れなかった右コーナー

 ホンダに乗りはじめて、私はストーン、ストーンと落車した。理由はブレーキにあつた。ギャンブルのオート・レースのマシンにはブレーキがない。変速も二、三段で、足をのせておくフート・レストすらなかった。片足は常に地に引きずっていて、それでクルマを支え、ブレーキをかけ、もう片足はクランク・ケースかマフラーの上にのせていた。コーナーでもギヤ・チェンジすることもなく、アクセルをちとゆるめるだけでこと足りたのだった。ところが、いわゆる市販車は前後輪にブレーキがあり、両方の手と足でもって走る格好であつた。
 私はさっそく通勤用にホンダの二五〇CC車を社内月賦で買い、前輪ブレーキの使い方をひとりで学んだ。ホンダの研究所の出勤時間は八時半だ。私の借家からはクルマで十分くらいかかるのだが、私は八時に家を出て、当時交通量の少ない川越街道を上り下りして練習した。歩道に立ち並ぶ街路樹を目印にして、時速八〇キロから四〇キロには、今日は四本分の距離、あしたは三本、そして四十キロから停止までは三本とか二本といった具合いに、ひそかに前輪ブレーキの使い方を習得していった。当時、非舗装路が多かったせいか、単車の前輪ブレーキを使うのは危険なことと思われ、新車のときからブレーキ・ワイヤをはずしている人達が多かったのだが、レースでは逆に前輪ブレーキが後輪のブレーキより大きな役割を果たすことがホンダにはいって私にもわかってきた。
 私が他人のものをとるのがうまいといわれるのは、このようにして、関係者の知らないところでひそかに練習するからであつた。健二郎には何をあてがっても乗りこなす、という大方のウワサは間違いで、私は常にぶざまな姿を人前にさらしたくないという一種のダンディズムから、ひそかに修練を積んだのだった。この話をある雑誌記者に話したら、あきれたような表情でこういったものだ。
 「健さんが地味な下積みの練習をしたことがあるなんて、どうもピンとこない。どうもイメージが合わないんだ。そんな話をきくとあんたのイメージがこわれちゃうな」
 へえ、そうかい、雑誌屋さんが勝手に。ペンの先ででっち上げたイメージとやらに、いちいちつき合っていられるかい−とはいわずに「オレは伊藤史朗みたいな天才じやないよ」とだけいった。しかし、これも実感であつた。
 それに、まるっきり走れなかったのが、右曲がりのコーナー。ギャンブルのコースが、左曲がり専門のトラック・コースだったからだ。これにはまいった。七年間左曲がり専門で走ってきた私は、どうしていいのか、頭を抱えこんでしまった。世の中に右曲がりのコーナーのあることをうらんだ。しかし、これではお話にならない。右曲がりを走れないレーサーなんて片輪者だ。ハンパ人足で使い物にならない。「右コーナーは走れません。左コーナーだけのコースで走らせてください」 これでは私のギャンブル時代の栄光が許さない。おまけに河島喜好監督(現在本田技研の常務取締役)は、 「健二郎、コーナーでは絶対に足を出してはいかんゾ、足を出したら世界GPレースでは失格だ」
 「エッ! 足を出さずに、どうやってコーナーをまわるんですか」
 これは私にとつて晴天のへキレキ。まさに闇討ちを食ったようなものだ。
 足を出せば失格! しっかく、しつかく…こっちは足がガクガクしてきた。どだいギャンブルでは、コーナーは、左足を地面につけ、逆ハンを切り、速く回つていくことが武器なのだ。それが、なんたることだ。唯一の武器である足を封じられるとは。これでは(逆ハンの健二郎)もかたなしだ。
 この日から、特訓が行なわれた。割箸をフートレストの上にしばりつけるのだ。直線から右コーナーにはいっていく。車を寝せる。
 最初は、おっかなくて車は寝かせられない。トロトロした走りかただった。二回目、三回目……朝から晩まで、ぶっつづけでやった。そのうちスピードもあがってくるし、割箸の先が、地面をこするようになつてきた。シメタ、この調子だ。
 こんな日が毎日続いた。くる日も、くる日も、割箸との格闘だ。足を出さずに、コーナーを速く回るには、この方法しかない。とすれば、やるよりほかはない。そのうち、ようやく皆といっしょに走れるようになり、自信らしいものが湧いてきた。
 どんなことでも、そうだろうが、人間(ヤル気)になればできるものだ。もちろん素質とか、才能とかも大きく左右する。ただガムシャラに、やれといっているのではない。緻密な計画と、科学的な裏付けがなければいけない。しかし、なによりも先行するのは、その人間の(ヤル気)だ。
 私の足を出せば失格だぞ″に端を発したコーナ・リングの特訓は、こうやって、どうにか足を出さずに、コーナーを回れるようになつてきたが、実は河島監督の、この言葉は、全くの嘘だった。GPで、こんな規則はない。
 しかし、ロードレースで、足を出さずにコーナーを回るのは、理論的に正しいし、こうしなければ、私のギャンブル時代からの癖は直らなかっただろう。だいいちコーナーで、足を出して回るなんて、ぶざまだし、いかさない。

第一回クラブマン・レース出場を拒否される

 一九五八年(昭和三十三年)八月の浅間レースに私は出場できなかった。この本を出す出版社のおやじ、酒井文人氏が「全日本モーターサイクル・クラブ連盟」なるものを全国的な組織で作り上げ、その年に第一回のレースを浅間火山のふもとにある、火山灰地のコースで開こうというものであつた。私はこれにホンダのクルマに乗って出場すべく出場申し込みをしておいた。ところがそれから三日後、アマチュア・レースにはプロ選手はもちろん、プロ選手をやめて一年以内のものも出場はまかりならんということになった。こちらは工場レーサーに乗ろうというのではなく、アマチュア選手が買える市販車で出場しようとしているのに、アマチュア精神がどうのこうのというが、主催側の関係者はその大半が自動車に関してはプロではないか。それに、いいたくはないが、そのアマチユア・レースをやるカネはどこからでているんだ。みんな2輪車のメーカーが出しているんじやないか。それに酒井のクソおやじのやっている雑誌を支える広告スポンサーはメーカーじやないか。
 私はこの酒井のクソおやじを脅したり、すかしたり、あげくの果ては嘆願書なるものまで書いて泣き落としにかかったが、敵もさるもの、ろばのように頑固だった。アマチュアとプロ選手の分かれ目をどこに置くかは、いまもって論争を重ねられている問題であるが、当時はモーターサイクル・レースも草分けなら、この間題はなおのこと前代未聞の難問題であった。当時のモーターサイクル.レースは、明治維新のころの勤皇倒幕、尊皇攘夷、薩摩だ長州だという騒ぎで、いまやっとレース界も昭和の元年にはいった感がする。
 この第一回全日本モーターサイクル・クラブマン・レースでは、高橋国光が三五〇CCクラスでデビューし、初優勝を飾っている。また鈴木誠一は一二五CCクラスで三位。生沢徹(当時十五歳で、最年少)は五〇CCのオーツキ・ダンディで一二五CCクラスに初出場したが、完走している。黒沢元治も一二五CCクラスに出場している。いま考えると、そうそうたるメンバーが、それぞれこのレースでデビューしているわけだ。

ホンダ、GPレースに初出場

 その翌年の昭和三十四年はホンダが初めて海外にでた年である。ホンダの社内にはホンダ・スピード.クラブという社内チームがあり、私もその中にはいっていたが、そこから鈴木義一、谷口尚己、鈴木淳三、田中髀浮フ四人が一二五CC車で、マン島T・Tレースに出場した。そのほかに、前年の浅間レースで活躍したアメリカ人、ビル・ハントが、個人参加という形で参加したので、ホンダ車は五台であった。成績は初出場にもかかわらず、谷口尚巳が六位、鈴木義一が七位、鈴木淳三が十一位、田中髀浮ェ八位で、谷口、両鈴木の得点でホンダはメーカーチーム賞をもらって帰ってきた。忘れられないのは、このマン島T・Tレースで、主将の鈴木義一が、この年、本田社長をモデルにした(妻の勲章)という映画のレースのロケで、箱根山中の崖に激突して死亡した秋山邦彦の遺影と遺髪を胸に抱いて走ったことである。秋山は、マン島T・Tレーースの派遣要員であつた。
 その秋山の遺影と遺髪を胸に抱いて、栄光の喜びをわかち与えようとしたギッチャンも今はいない。ギッチャンは、一九六三年(昭和三十八年)のリエージュ・ラリーで、ホンダS六〇〇で健闘していたが、崖から落ちて永遠に帰らぬ人となつた。
 人間の命のはかなさ、仏教でいう(輪回)というのか、そんなものを感じる。それだけに、一つしかない人生は大事にしなければならないし、命を粗末にする奴をみていると、無性に腹が立ってくる。
 マン島T・T組が輝かしい成績をおさめていたとき、残ったわれわれの方は、その年の浅間レースに出場する準備やら、来年からは一二五CC車だけでなく、二五〇CC車も出場させ、レースもマン島T・Tレース一つだけでなく、ヨーロッパ各地を転戦するということで、その準備に忙しかった。

一九五九年浅間レースで二位(ホンダ四気筒初出場、野口のタイガーぶり)

 浅間レースは日本のレース界の夜明け前であつた。一九五九年のレースは、工場ライダーとファクトリ・マシンで競われるいわゆる「ファクトリ」のレースが浅間火山耐久レースで、これと同時に全日本モーターサイクル・クラブ連盟、つまり前記の酒井のおやじが開くクラブマン・レースも一緒に行なわれた。耐久レースは一年おきで、この年は第三回。クラブマン・レースは前年の五八年に始まって、この年は第二回であり、面白いのは、クラブマン・レースで三位まで入賞したものは、耐久レースに出場できることと、出場車の多いレースは、二回に分け、決勝戦をやらずに、各予選のタイムで決勝順位を決めていたことだった。
 このレースのうち、クラブマン・レースでは、前年の第一回レースで花々しくデビューした高橋国光が、BSAで五〇〇ccクラス優勝。招待された耐久レースのセニア・クラスでは、BMWに乗る天才・伊藤史朗とせり合って二位。生沢徹は、スーパーカブで五〇ccクラス二位。これが生沢の初入賞だ。ホンダのスーパースポーツに乗る北野元は、一二五ccと二五〇ccクラスでダブル・タイトルを獲得し、工場マシンと工場ライダーの立ち並ぶ一二五ccの耐久レースでも優勝した。市販のベンリイSSに乗って、これがレース二度目(初出場は第一回全日本モトクロス、オープンクラスで優勝、ロード・レースはこれが初めて)という全くのアマチュアが、ホンダのベンリイRC一四二という工場レーサーを破ったのだから、北野にとつては、この一九五九年の浅間レースは、まさしく花々しいデビューぶりであつた。
 私が出場したのは耐久レースの二五〇ccクラスで、クルマは次の年の海外レースに備えて作つたRC二五○というわが国で初の四気筒車であつた。私は運よく二位にはいったが、このレースで男を上げたのはクラブマン・レース二五〇ccクラスで三位になり、この耐久レースに招待されたヤマハYDSに乗る野口種晴だった。ヤマハは耐久レースには公式に工場チームを出場させず、YDSという浅間コース用の五速ギヤをもつた市販車でホンダの挑戦をかわそうとしていた。そしてヤマハの院外団の中ではピカーの乗り手であつた野口が、ホンダの四気筒に敢然と戦いをいどんできた。まさしくヤマハがただ一台、五台のホンダ四気筒に襲いかかったのだった。ホンダ四気筒に乗ったメンバーは主将の故鈴木義一(三位)、島崎貞夫(一位)、佐藤幸男(五位)、田中髀普i六位)、私(二位)である。野口はホンダの五台の中に割ってはいり、私の後で三位を守り、ホンダ勢を撹乱し、扱いずらい四気筒に乗るわれわれホンダ・ライダーはどうみても野口一人を主役にした脇役の感じで、十周まで野口はその主役を堂々と演じたのだつた。
 野口は十一周目でエンジン故障のためリタイアしていったが、彼の退場とともにこのレースは終わったようなものだつた。私がよくレースは勝ち負けだけではないというのは、こういうことなのだ。
 クルマとライダーの能力を九十九・九九%まで発揮して、そいつが走ると他の奴等の走り方がいかに甘っちょろくて、八十か七十五%の走り方しかしていないのがわかる、といった走り方をやつてのけた人間にとつて、一位優勝の栄冠なんてたいしたものではないはずだ。恐らく、あの時のレースの観衆は野口の勝つのを見なくとも、奴の走るのを見て十分にレースというもののだいご味を満喫したことだろう。またあのレース以後は、野口が出場するというだけで、観客は奴の走りつぶりを見たいというだけで客が集まったことだろう。もうこうなると、野口を知るものは奴に勝ってくれなどと願わなくなる。奴は何位だって、途中でリタイアしたっていいのだ。ただ野口が例の九十九・九九%の走り方さえしてくれればよいのだ。
 一九五九年の浅間レース当時の私が野口に対して感じていた莫然たる尊敬は、強烈なライバル意識となつていったが、いまは、おれもあいつに似てきたな、とふと何やら寂しげに思い出す。
 野口といえば、奴は酒の強いことでも人後に落ちなかった。浅間レースではヤマハは北軽井沢の養狐園に合宿していた。ある夜、ホンダ勢が押しかけていって、酒の戦いを挑んだことがあつた。夜がふけるにつれて、ホンダ側では鈴木義一がのび、ヤマハの方も砂子が、そして益子がのび、さらにヤマハ院外団の団長格であつた浜松の梱包屋の土屋進蔵氏がのびたくらいだから、その酒量はまさに牛飲のことば通りだった。残るは私と野口の二人だ。二人とも鯨が海水を飲むように飲んだが、外が白々としてきた午前四時半、私は野口の前に手をついて「かんべんしてくれや」といった。
 翌朝の勘定書きがまた大変だった。ヤマハとホンダ合わせて九人ほど飲んだ酒が一升びんで十二、三本だった。この九人の中にはほとんど飲まない奴もいたのだから、最後まで頑張った野口の胃袋に流れこんだ酒は二升は軽くオーバーしていただろう。それにしても野口という野郎は何とかしてあの野郎をやりこめることはできないのか?
 当時、野口といえば、いまの故福沢幸雄や生沢徹ほどの人気があつた。いまほど全国的といった人気ではないにしてもハンサムな奴は大変な人気者だった。そのうち、軽井沢の郵便局長の家で女中をやっていた女がえらくべッピンで、その女が野口のパンツを洗ったとか、ナニをしていたとかの情報がはいってきた(現在野口はヤマハのモトクロスの監督とモータースを横浜で経営している)。
 よし、野口の弱味はここだ。さあ、やれ、ホンダ・チーム全員でいこうぜ。腕ずくであろうが、何であろうが、あの女をこつちにいただいてしまえ。あとの始末はおれがする。さあ、やれ、とばかりにやったのだが、これが後日えらい問題になり、私は草津の警察の部長派出所に呼び出された。野口が告訴したのだ。しかし私には対策が考えてあつた。チームの独身者の名を挙げ、気の弱い奴なので、みんなでそいつの気持ちを伝えようとしたことで、話はまとまり、近くそいつといっしょになるというから・・・これには野口も引きさがらざるを得なかった。
 当時は豪傑ライダーが多かった。こういう話をすると、何の分野でも創生期には豪傑が多いものだ、と水を差す奴がいたが、それにしても、いまの連中はあまりにも自己中心主義で、生沢がレースはビジネスとか書いているが、私としては笑わせるなといいたい。あいつも十年以上レースをやっているが、後世、人に語れることをやってみろ、といいたい。それに、現状のレースは企業としては成り立たないんだ。八幡製鉄がスポンサーだとか、そのレースのせいで第一銀行と三菱銀行がケンカをおっぱじめたというのなら「レースはビジネス」も実感がこもるが、たかがテレビのスポンサーが、片手間に援助するくらいのことに、一人の人間が、ビジネスだ、真剣です、と命を捨てるほどのものではないはずだ。そんなことより、奴にグランプリ・レースで早く日の丸を掲げてもらいたい。
 私は国粋主義着ではないが、毛唐どもが見ている前で、日の丸の旗が青空高く上っていくのは実にいいものだ。「オレンチの旗だ」「ざまあみやがれ」「やったぜべーピー」 ○○したときのように魂が天駆ける思いがする。

高く掲げた日の丸(日本人として初入賞−一九六〇年ドイツGP、二五〇ccクラスで三位−)

 私は2輪車の世界GPレースで、外国の地に日本人ライダーとして初めて日の丸を揚げた。一九六〇年七月二十四日のドイツGP二五〇ccで三位にはいったときだ。そのときは膝ががくがくしてふるえが止まらなかった。ギャンブル・レースの時代には大臣賞も通産局長賞ももらったことがある。風呂にはいるにもランクがあるというプロの社会で、長い下積みをやり、やっとの思いで、三十一年と三十二年に連続して大臣賞をもらったときでも、やはり感激で足がふるえたのだから、ドイツGPのように外国で日の丸を揚げたときの感激は、田中健二郎ではなく、日本を代表する日本人という気持ちになっておろおろしたのも無理ないことだ。
 レースは、一九五六年以来ひさしぶりに、ソリチエードコース(一周約十一・三六キロ)を十三周する、約百四十七・六八キロで行なわれた。このコースは、GPレースには珍しく、左回りのコースであった。ギャンブル・レースと同じだ。私はひそかに、シメタ、これなら何とかいけると思った。スタート・ラインに着きながら「よーし、一丁やったるぞ」毛唐なんかに負けるもんか。お前らも人間なら、俺も同じ人間じゃないか。ただチットばかり皮膚の色が違うだけだ。奴らが、どんな優秀なテクックを持っているか知らないが、俺にだってギャンブル時代からつちかってきたテクニックがある。マシンは、ホンダのおやじさんが、心血を注いでつくったものだ。
 「おやじ、見ておれよ、健二郎は精一杯走るぜ!」ホンダのおやじも、「健二郎、お前が男なら一丁やってみろ」私には本田宗一郎社長の声が聞こえてくるようだった。
 ホンダ入りしてから、辛かった「右コーナー」の、割箸特訓、ブレーキ練習、そんなことが走馬燈のように、頭の中を駆けめぐった。
 めざす敵は、MV勢のガリー・ホッキング、カルロ・ウッビアリ、ルイジ・夕べリ、MZ勢のエルストン・デグナー、それにヘンプルマンにデイル、ジム・レッドマンもいる。
 まさに、そうそうたるメンバーだ。スタート・ラインに着いて、ぐるりとまわりを見渡すと、なんともいえない不安が、胸の中を吹きぬけていく。ギャンブル時代から数えて、何十回、何百回と経験したことなのに、スタート・ラインに着いてから、スタートするまでの、ほんのわずか五〜六分の時間が、むしょうに長く感じられる。これはレーサーにとって避けられない時間なのだ。これから始まろうとしている、スピードへの挑戦がそうさせるのか、コンマ何分の一秒の誤謬が天国へ直結させる恐怖感がそうさせるのか。大きなアクシデントが、そう(死)がパックリ口を開けて待っているかも知れない……その中に俺は飛びこんでいく……何故、お前は危険なレースを走らなければならないのか……どうして走るのか・・一分前、三十秒前……もはや、そんなことはどうだっていい。私にとって、走ることが仕事なのだ。(走り屋稼業)それが私の仕事であり、その仕事が、私の生き甲斐なんだ。走ることを私から取ったら、後になにが残る。
 スタートは、午前九時半丁度。私は夢中でマシーンを押しかけた。ボロン、ウォーン……ホンダの四気筒特有の音をたてながら、エンジンは一発でかかった。「それ行け/」 私は、二速、三速、四速とギヤチェンジしていった。
 トップは、スタート旗が降りるやいなや、猛然とダッシュしたホッキングだ。完ぺきなスタートとは、このときのガリー・ホッキングのスタートのことをいうのだろう。それを同じMV勢のウッビアリが猛烈に追った。私も遅ればせながら、これらを追っていった。コースは、昨夜の大雨でだいぶ濡れている。第一コーナーだ。減速する、ぐぐぐっと、コーナーがクローズアップされてくる。アッ!誰かが転倒している。名手ウッビアリだ。彼は第一コーナーにドロがあり、そのドロが、昨夜来の大雨を吸ってドロドロになっている部分に、それと知らずに突っ込んだのだ。
 怪我をしたのか、大丈夫かな。そんなことがチラッと頭をかすめるが、私はヤミクモに飛ばす。一周目、二周目、私は何がなんだかわからず、ただ夢中で、ガムシャラにぶっ飛ばしていった。そんな私を、さっき第一コーナーで転倒していたウッビアリが、アッという間もなく抜き去っていく。
 三周目。ピットから飯田マネジャーが、私に6のサインを出している。「ありや六位かいな。こいつはいけるかも知れない」私より先を行くのは、ホッキング、ウッビアリ、夕べりのMV勢。続いてMZのヘンプルマン。五位にレッドマン。私は、このトップ・グループにぴったりとくっついた。雷が鳴ったって離されてたまるもんか。私は、スッポンのごとく彼らに勝負を挑んでいった。
 四周、五周、六周、私はただひたすらに走った。七周目。レースは後半にはいっていく。
 これからが勝負どころだ。マシンは、ますます快調だ。前を行く車がコーナーでもたついている。エンジンが不調らしい。タベリだ。こん畜生とばかり抜いていく。これでMV勢の一台は抜いた。
 八周目。必死で、ピット前をぶっ飛ばしていく、サインを見る。4という数字が出ている。「オヤ、四位なのかな」おかしい。一体どうなってんだ。タベリを抜いたが、確か五位のはずなのに。「まあ、どうだっていいや」それにしても、くねくねと曲がりくねったコースだ。
 九周目。前を行く車が見えない。焦ってくる。ガリー・ホッキングと、カルロ・ウッビアリ、ヘンプルマンはどうしたんだ。
 十周目。ホーム・ストレートにはいる。ピットからは、3のサインが出ている。「三位か−えっ三位」私は、自分の目を疑った。3位、8位じゃないのか、確かあれは三位だった。たちまちのうちに直線を駆け抜けていく。第一コーナーだ。瞬間、スタート直後のクッビアリの転倒を思い浮かべる。アッと思う間もなく、私は抜かれた。一瞬のしゅんじゅんが、ちょっとのぐらつきが、コーナー・ワークに隙を作ったのだろうか。デイル(MZ)だ。私は、長い夢からさめたように、猛然とデイルを追っかけた。次のコーナーでは、私がデイルをとらえて抜いた。デイルもさるもの、必死になって私を追っかけてくる。その次のコーナーでは、ほとんど両者きびすを接するようにしてコーナーへ突っ込んでいく。
 こうして私とデイルの闘いは、最終回の十三周目へと持ちこまれた。「このゲルマン野郎、負けてたまるか」こうなりゃ、私とデイルの一騎討ちだ。十三周目。ピットからは私に4のサインが出された。私とデイルとの差はない。それなのに、サインは4だ。「絶対に負けられなくなってきた」
 一方デイルも地元だ。すでに僚友で、MZのエース、デグナーはリタイアしている。デイルも必死だ。東独、西独とわかれているとはいえ、同じゲルマン民族だ。
 観衆は、この私とデイルの三位争いに熱狂してきている。これは走っている私にも、ピーンと伝わってきた。一位を走っているホッキングよりも、ましてや二位のウッビアリなどよりも、三位をせり合っている私とデイルの闘いに、十万余の観衆の目は向けられた。レースとはそんなものだ。
 私は、最終回第一コーナーを思い切って突っ込んでいった。直線でデイルをわずかにリードしていた私は、アウトからインヘ、叩きつけるように、デイルの頭を押えるようにして得意の左コーナーに挑んでいった。コーナーから立ちあがっていく。あのMZのカン高い二サイクル独特の音が聞こえない。離した、完全に差をつけたのだ。「よーし、それ行け!」 私は、自分の持っているテクニックをこのときとばかり、ここソリチエードのサーキットにぶちこんだ。
 しかしデイルも強い。また背後にMZのカン高い二サイクルの排気音が聞こえてくる。私にはふりかえる余裕などない。あるのは、あと半周に迫ったゴールだけだ。「こないでくれデイル! マシン・トラブルでも起こしやがれ」私は神に祈った。
 あと四分の一周。もうゴールは目前だ。最終コーナーを回った。アクセルは全開だ。カウリンの中にぴたりと吸いつくようにして身を伏せる。もう何も聞こえない。頭の中が真空になってくる。走れ! ただひたすらにマシンよ走ってくれ! チェッカー・フラッグが見えてきた。
 チェッカー・フラッグが激しく振られる。「やった! とうとうやった。三位だ」 練習で死んだボブ・ブラウンの顔が目に浮かんできた。彼は、やさしくほほえみながら、「ミスター・タナカ、オメデトウ」 私達ホンダ・チームは、彼のコーチを受けていたのだ。「これで死んだボブ・ブラウンに恩返しができたぜ」私はそっと心でつぶやいた。
 死闘を演じた私と、デイルとの差は一・一秒差であった。
 ギャンブルから転向して、「足を出せば失格だ」「右曲がりは全然のへタッピー」「ストーン・ストーン落車はする」「へえ! あれがギャンブルで無敵といわれた健二郎か」 まわりから嘲笑の目でみられていたその私が、日本人として初めて、GPレースで三位に入賞したのだ。私は、生涯このドイツGPを忘れはしないだろう。私にとって一九六〇年七月二十四日は、一つの記念日となった。
 【ドイツGPレース結果】
一位G・ホッキング(MV)一時間一分一秒、約一四四・八六km/h。二位C・ウッビアリ(MV)一時間一分三十七秒四、約一四三・五六km/h。三位田中健二郎(ホンダ)一時間一分五十七秒七、約一四二・七八km/h。四位R・H・デイル(MZ)一時間一分五十八秒八、約一四二・七六km/h。五位L・タベリ(MV)一時間二分十三秒五、約一四二・一七km/h。六位高橋国光(ホンダ)。七位佐藤幸男(ホンダ)。
 私は、自分の名前らしい「ケンジロ・タナカ」と呼ばれてもぽかんと突っ立っていたら、高橋国光がとんできて、
 「健さん、手を挙げるんだよ。挙げたら振るんだよ」と教えてくれた。

アルスターGPで瀕死の重傷(タバコ、スモーク、シガレット)

 話がとんでしまったので、一九六〇年のホンダ・チームの動きにもどそう。この年のホンダは高橋国光と北野元を加え、二つのチームを作り、前半の海外レースに出陣する第一陣と後半に出る第二陣に分けたのだった。私は二陣の組であったが、実をいうと二陣の方がクルマがそれだけよくなっていたのだった。どこのメーカーもそうであったが、海外レース場とメーカーの研究所とは国際電話で連絡し合っていて、海外から設計変更とか、補修部品を送ってくれとかの注文があり、ホンダの場合はそれを研究所で作り、荒川土手のイモ畑の中にあったテスト・コースでテストし、飛行機で送るという作業をやっていた。
 私達第二陣はドイツ、アイルランド、イタリアと出場することになっていた。第一陣は六月に開かれるマン島T・Tレース、次いでオランダ、ベルギーと出場するのだった。そして外人ライダーもホンダにはいってきた。マン島T・Tからボブ・ブラウンが加わってきて、日本人にメカニックなことと、ライディング・テクニックを教えこんだ。しかし、彼はこの年の私が三位になったドイツGPの練習中に死んでしまった。そして私が大怪我をしたアルスターGPではトム・フィリスが一位のウッビアリに二秒差で二位にはいった。
 二五〇cc車はドイツGPのあとで不良部品を交換したため、アルスターではえらく調子がよかった。スタート直後の順位はウッビアリ(MV)、ホッキング(MV)、三番手にスパジアリ(MZ)、デグナー(MZ)そして私がせり合っていた。クルマは直線ではよく伸びた。ホンダのおっさんが十二対一という圧縮比にして作ったエンジンは、線香花火そっくりのクシュ、クシュ、クシュという音を立てて回っていた。レースは二十五周だ。五周もしないうちに、ゼニを間違えることで有名な飯田マネジャー(レース監督河島さんの補佐役、現在ホンダランド・スズカサーキット業務部門の支配人)からポジション4のサインが私に出された。私はそれが信じられなかった。前を見るとスパジアリ、その前はデグナー、するとその前には一人しかいないということだ。後にはへイルウッド、それにMZの師匠格のフィシャーがいた。こんな偉い奴がうしろにいるのだから、こりや何とか良いところに食いこめそうだわい、と私は考えた。
 ホンダの二五〇ccマシーンは、当時、毎分一万五百回転で、アクセルを開けても開けてもスピードが乗ってきた。いいぞ、これは大丈夫だ、いける、いけると自信を深め、力まかせに直線でスパジアリを抜き、デグナーを抜き、カーブにかかった。そこに周遅れのライダーがいて、それをいま思えばギヤ・ダウンしてインから一気に抜くべきところを、外側から抜こうとした。が、そのカーブにはスピードがありすぎて一瞬私は、ふらっとなり、その隙を狙ってスパジアリが私を抜いていった。これは私にとって恥辱だった。ふらついたぶざまな姿を見られたということ以上に、その際に抜かれたことは、私の職人根性が許さなかった。私は奴にトーノフ・コーナーで追いつき、さっき奴がやったようにインに回りこんで一気に抜こうとした。そこで大きく傾いたクルマは横倒しとなって、外側にいたスパジアリを引っかけた。
 一切の感覚が失われた。そこには音もなく風景もなく、触覚もなく、痛みもなかった。スパジアリは長々とのびているし、私の右足は己のキンタマの上にのっかっていた。私はあお向けに倒れているにもかかわらず、右の足首が変なふうにねじれて、キンクマの上にのっかっていた。しかも足の指がこの形では向くはずもないのにへソの方を向いていた。私は己の怪我の大きさを一瞬のうちに感じ、ガク然とした。これは折れてねじ曲がっているのだ、と気づくと、そこで痛みが襲ってきた。
 意識はしっかりしていたが、かえってそのため痛みは激しく、鼻の下は切れ、左手の指は第−関節のところで切れていた。血が熱したサーキットの上に少しずつたまっていた。私の横たわっていた場所は、コースのどまんなかだった。幅六mほどのコースを這って端に行こうとしたが、足がぴくりとも動かなかった。後続車に私の倒れていることを知らさなければ……一瞬、日本のオート・レース場で車輪の下敷きになっていった友達のことが浮かんだようだったが、それよりも早く、私は半身を起こして手を振った。私のいたトップ・グループに少しおくれて、高橋国光や佐藤幸男がとんできた。私は総攻撃の最前列にいて敵弾に倒れた鬼軍曹の気分で、「おれにかまうな。いけ、早くいけ」と手を振ったのだが、あとでの国光の言い草が憎たらしい。
 「健さんたら、コースのどまんなかで、交通整理をやっているみたいだったぞ」。
 国光は私の手の振るのを見て、その近くに危険なものがあるのを知らせているものと解し、速度を落とし、奴に続く日本人ライダーもそれにならって、私のそばを徐行していった。しかし、これには一つの秘密があるのかもしれない。国光はああいっているものの、本当はクルマをとめて、クルマから降りて私のそばに駆け寄りたかったのだろう。それをしない代わりに、奴は速度を落として、私の怪我の程度を見きわめようとしたのだろう。もちろん、国光はファクトリ・ライダーとしてのプライドからか、そんなことはおくびにも出さない。あとになって、互いに相手のへマをヤリ玉に上げて冗談の種にしているが、あの頃は怪我に対する心がまえもなく、それに仲間の怪我の状態を知るには、一時間もレースをやってからでないとわからない、という状態だったので、気のやさしい国光のことだ、恐らくこういう気持ちから速度を落としたのだろう。レース結果は、一四二・三八キロを五十八分四十七秒二で走ったウッビアリ(MV)が一位で、二位はトム・フィリス(ホンダ)、三位ジム・レッドマン(ホンダ)、四位マイク・ヘイルウッド(ドカティ)、五位高橋国光(一時間五十七秒二)。六位ルイジ・タベリ(MV)、七位佐藤幸男の順であった。
 一周九・二キロのコースは、レース前半には出場全車が通りすぎると、すこしの空白があった。このとき、数人の観衆が柵を越えて私の方に駆けより、私をコースの端に運んでくれた。まず彼らが最初にしてくれたのは、ヘルメットをはずすことだった。そしてチャックを下げてくれたりしたが、そのうちに救急車がやってきて、私を医務室に運んだ。
 ベッドに横にされて、私は何も考えることができなかった。ただやたらとタバコが欲しかった。砂漠で白く乾いた口から、水、水をくれというように、私は「タバコ、タバコをくれ!」と弱々しくつぶやいていた。彼らのけげんそうな表情をみて、私は考えた。「そうだ、ここは外国だ。英語だ、イングリッシュだ。タバコだ。タバコは何というのだったか? タバコ、タバコだ。タバコ・・スモークか、いやシガレットっていうのか?」
 私はこの単語を二つ続けて発音してみた。彼らは「ノー」といい、私はあくまでもこの二つの単語を発音しつづけた。「ノー」というからには、私のいうことばの意味が通じたんだ。私はうわごとのように「スモーク、シガレット」といい続け、そして火のつけられたシガレットが私の口に当てがわれた。私はそれを何回吸ったか覚えていない。覚えているのは、ただやたらと甘からい煙がからだ中にしみこんでいく感じであったことだ。この感じを道連れにして、私は気を失っていった。


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