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プロ(オートレース)選手の巻

半年間は完全なドン尻選手

 プロ入りしてから最初の半年間、私は完全なドン尻であつた。九人出場すれば九位、八人出れば八位と、私はものの見事にドン尻選手であつた。私が初めて五位にはいったときは、私の師匠格であった修理屋の中野さん(この人もプロの選手になつていた)が、赤飯をたいてお祝いをしてくれたくらいだった。
 当時のオート・レースは毎月一回(七日間)船橋で開催され、選手達はそのつど、全国から集まり、レースが終わると帰っていくのだった。選手の数は全部で六十人くらいで、一日に五レースにも出場した人もいた。私のような新人は、最初の第一レースで予選タイムを通るのがやっとというありさまだった。もちろん、クルマは自分もちで、レースが終わるとマル通で送り返すのだが、これが一週間かかり、運送料は千二百円ほどだったと記憶する。九州の家に帰ると、魚の配達で、ちょつとの隙をみては、修理屋の中野さんのところへとんでいき、クルマをオーバーホールしたり修理したりする。
 それにしても、賞金がはいらずに参加手当てと出場手当てだけでは、どうやってもクルマの修理代までは払いきれない。またしても、魚の間引き、ちょろまかしで、やりくりしていった。クルマはもちろん最初の五万円のトライアンフで、下手は下手なりによく転倒し、よくマシンをこわした。この時代は苦しかったと思われるかもしれないが、事実はそうではなかった。芽の出ない時代ほ二年間続いたが、プロとはいっても二十歳にならない独身者、しみったれた生活のかげりなど、ひとかけらもなく、それどころか、大勢の観衆の前で自分の名を呼ばれ、予想新聞などに小さな活字であつたが少しずつ自分の名がのるようになることが、この上もない喜びであった。学問には興味がないというだけで、雑草のように踏みにじられ、見捨てられていた私の少年時代の欲求不満が、ここで少しずつ満たされだしたのだ。それも、映画スターを夢みた家出娘が通行人とか、「いらっしやいませ」の一言をいう給仕の役をもらって、それが字幕の最後に名がのったといって喜ぶのと変わりないといえば、一言もないが、しかし、喜びとか悲しみとかは理詰めで考えれば、おかしくも面白くもないものだ。やはり私は嬉しいものは率直に嬉しいといいたい。

他人のテクニックは盗みとれ

 しかし、プロの選手生活も三年になると、このままじゃいかんわい、と考え始めてきた。クルマは古くなり、いたんでくるし、怪我はするし、カネはかかるしで、何はともあれ賞金を稼がにゃ動きがとれん、ということに気づいてきた。私は十九歳になつていた。とはいっても、性能のいいクルマを買うカネはないのだから、自分の腕と足で、つまりテクニックで稼がねばならない。この頃から私なりの勉強が始まった。先輩どもの走り方をよく見ること。他車のギヤ・レシオを探り出すこと。キャブレターは何mmのものをつけているのか? 自分のマシーンのギヤ・レシオだのキャブレターだのは他人に知られたくないものであったし、ましてや私のような新人が先輩達にそれを聞くわけにもいかなかった。
 「お早ようございます。やあ、汚れていますね。掃除しておいて上げますヨ」と私は先輩達にいい、一生懸命マシンを磨きながら、ドライブ・ギヤとドリブン・スプロケットの歯数を覚えるのだが、頭の中に暗記したといって、掃除をやめて引っ返すわけにはいかない。ぐずぐずしていると「おい、オレの靴も磨いとけや」と先輩の声がかかり、彼等にお世辞の二、三もいっている間に、そのスプロケットの数を忘れたり、前と後がごちやごちやになつてしまうこともあつた。
 当時、覚えているのは前のスプロケットが、十六枚から十八枚、後が四十五から四十六枚だったと思うが、これをごつちやに覚え、それに基づいてスプロケットを入れたものだから、とんでもないマシンができ上がったこともあつた。
 こういう失敗をしないため、その次からは短い色鉛筆をしのばせていって、スプロケットの歯数などをからだや服の裏に書きとめてきたものだった。この頃にはタイヤも豊富になってきて、晴天用とか、コースの硬さ柔らかさに応じてタイヤを変え、キャブレターのジェットや、サスペンションのバネを変えたりしていた。こういう調整を私は他人から学ぶというより、盗みとって自分のものとしてきた。私は学問は好きではない。だから、他人のもっているものを頭を下げて教えて下さいというのではなく、とってやるんだ。
 そもそも、他人はどうか知らないが、敗戦を教師と共に迎えた私どもは、先生に対する不信の念がぬぐいきれなかった。昨日まで「鬼畜米英」といっていたものが、一夜明けると「米英は良い国だ」とか、民主主義だの平和だのと手のひら返すことをおくめんもなく口走る。教師なんてものは、何も一尺高い教壇にいる人間だけではない。こじきを見ても、犬の親子をみても、そこから自分なりの教訓を見つけられる人間にとっては、何でもが先生なのだ。高い授業料を払って、頭を下げて教えてもらう必要はない。
 私はよく最近の若いものにいう。
 「大きい目を開いて、他人のクルマ、他人の走り方、何でもかんでもよく見て自分のものにせい」
 とにかくその頃の私の選手生活は、自分一人がたよりの、いわゆる小僧時代″であつた。先輩とは、ハーレーとかインディアンといった大排気量車をもって出場するレースのクラスが上の人であり、そして年上の人であり、金持ち連中のことであつた。私はインディアンを持っていた同じ福岡出身の前記の中野さんの「若い衆」であり、練習もこれら先輩達の終わったすきに、こそこそとやり、タイムを計ることもなく(もちろん、速度計も回転計もついていない)流れる大地と排気音だけで、良いか悪いかを判断し、クルマをとめては一人で調整するのだった。ギャンプルのレースにはメカニックなど存在しなかった。
 機械のことでは、電気位置に悩まされたものだった。四サイクル・エンジンの爆発はガスを一番圧縮した上死点で点火するのが原理だが、それを上死点の何度前で点火するのがいいとか悪いとか、しかもその何度というのが目に見えるわけじゃなし、ビス一本のまわし方で点火が早すぎたりおそすぎたりで、私はスタート前の切ない時間に身のやせる思いをしたものだった。泣き出したいようなこんなときに、スタート係からは「こらっ、田中の新人、ぼやぼやせんと早よう出んか」とどなられるけど、こういう場合でも、先輩の中野さんは全然教えてはくれない。福岡に帰れば、私の方が彼の客なのに、レースとなると、そこは勝負の世界、冷たいものだった。
 何といったって、私は最年少の小僧にしかすぎず、アマチュア・レースのキャリアにしても少なかった。最年少といえば、現在カー・レースで活躍中の田村三夫もこの最年少クラスであつた。

その他大勢”を二年間つづける

 ギャンブル・レースの世界に、私は十六歳から七年間いた。昭和三十三年一月、二十二歳でこのレースから足を洗い、しばらくして同じ年の春ひょんなことからホンダにはいった。ギャンブル・レースでの七年間は、それ以後の十年間よりも多彩なエピソードに包まれた、充実した、花やかな日々であった。
 女子(おなご)を知り、それをだますことも知り、八百長をやったり、クルマ五台分くらいのカネを賭けて一対一のレースをやったり、バクチもやった。こちらの指一本の指示で何百万円というカネの動く八百長をやったり、ついには一網打尽につかまり、ブタ箱にたたきこまれたこともあつたが、あの頃は毎日毎日が、ぴんと張りつめた緊張感に支えられていて、質を別にすれば、嬉しさ、おかしさの量の方はとてつもなくでっかいものだった。こういう話はあとでゆっくりと書いていこう。
 私のプロ入りを決意させたハーレー一二〇〇は一年たつても買えなかった。これには、前に書いたドン尻の連続という理由とは別にもう一つわけがあった。いわゆるギャンブル・レース草分け当時の選手達は、その多くが会社の社長とか重役であり、彼等にとつて、レースは一つの遊びにしかすぎなかった。もっとも、当時ハーレーとかインディアンを買えて、それを乗り回せたのは、会社の社長か何かぼろいもうけをした人なのである。いいかえるなら、私のような貧乏者ではなかった。
 こういう人達がレースをやるということは、本業のほかの息ぬきであり、楽しみであり、そのうえ三十万も五十万円ものカネがはいってくるとあっては、笑いの止まらない小遣い稼ぎなのであつた。したがってレース後の彼等のお遊びは豪快そのものであつた。新橋の「ショーボート」といえば、当時日本で最高のキャバレーであつたが、そこの一階と二階全部を買い切りといった具合いのお遊びであった。酒池肉林の上を札束が舞うといった情景であつた。こういう連中のお伴をしていたのだから、私にカネのたまるはずがない。
 それにしても差がありすぎた。同郷の中野さんは呉までいって、MPが使っていたグリーン色のマチレスを買つては、それをレースに使うなど、クルマを見てもその差は歴然としていた。軍隊用語でいうなら、当時の私は「員数」であった。いわゆる「その他大勢」の一人だったのである。私はこのオジさん達と自分との差を考えていた。

ハーレー欲しさに家出(店のオート三輪二台を売り、売り上げ金も持ち逃げ)

 まずはクルマだった。ハーレーの一二〇〇だ。あれがなくては、この差は埋まらない。家のおやじにクルマを買いたいが、といってみると「何をいうか、あんなサーカスに」と相手にしてくれず、さりとて私はレースをやめる気は毛頭ないので、最後は兄貴に相談してみた。
 「よーし、そんなにそのクルマが要るんなら、買っちやえ」と、兄貴の答えはいとも明快であつた。
どうやって買つたらいいんだ、と聞くと 「そのカネはおれが都合しよう」という。
 「その代わり、お前は家にいれなくなるぞ」
 「それじゃあ、にいちゃん。何か悪いことやって、それをおれにかぶせる気か?」
 「いやか? それがいやなら、クルマ買うのやめれ」
 「やめるわけにはいかんよ。それにしても何をやらかすんか?」
 家にはオート三輪車が五台あつた。そのうちの二台をおやじにかくして、たたき売っちゃう。これだけでは足りないだろうから、店の売り上げのカネも持っていけ、というのが兄貴の計画であつた。
 「店の集金は何とかおやじをごまかしておけるけど、オート三輪が消えたとあっては、お前は帰ってこれなくなるんだぞ。いいか、おやじだってお前を家には入れんぞ。やるならそこまでやれ。よく、駄目だったら帰ってきな、っていう親馬鹿がいるけど、こんなのは男が世に出たことにはなりゃせん。そんな調子で世間に出ても、薄ら馬鹿になって戻ってくるだけなんだ。それより、絶対に家には帰れんことをやって、家を出るんだ」
 偉い兄貴だった、と私は思う。家の跡取りの長男で、結婚前の身ではあったが、言葉どおり、オート三輪をたたき売り、店の売り上げを私に渡してくれた。このカネで、私はハーレーを買い、もう決して引き返すことのできないプロ選手への第二歩を踏みだしたのだった。
 この兄貴がいなかったなら、ギャンブル・レースの選手生活はもっと惨めなものになっていただろうし、あるいはもっと早くやめていたかもしれない。兄貴こそは、私の選手生活の第二の難関を突破させてくれた恩人であった。それだけに、この兄貴もギャンブルの世界の味を本能的に感じとっていたのか、その後一年ほどして競輪の選手になり、いまもって競輪選手をやっている。まったく、わが田中家にはギャンブラーの血が流れているらしい。
 しかし、問題の事後処理はお祭り騒ぎであった。健二郎の奴がオート三輪をぶっとばしていて、えらい事故を起こしてと、まず兄貴の芝居が始まった。
 「ワッパもエンジンもすっとんじやって、ありや屑にもならん」と兄貴がうそぶいた。おやじがどなる。
 「もう一台はどうしたんか!」あれはどこそこのだれ兵衛に貸してやった、といい切って一カ月はもたせたそうである。
 しかし、あんたの息子二人そろってオート三輪を売りにきたんで……という自動車屋の話を聞いた、おやじの怒りようは、私には夜ごと夢枕に現われるほど、よく想像できた。兄貴がどんなに苦労したことか・・・ああ、この兄貴に祝福あれ。

死という言葉はタブー

 私はそれからの何年間かは家には帰れなかった。優勝旗をとるまでの四年間ほど、私はおやじの顔を見なかった。甲子園にオート・レース場ができ、そこで私が四重衝突の一番下敷きになって脊椎を痛めて、一年間明和病院に入院していたとき、おやじはこないどころか、手紙すらよこさなかった。
 病院を退院した後上京した、東京の大井町で四千五百円の部屋を借りたが、その部屋代すら払えないときがあった。大井の競馬場にいく道の、北浜小学校の近くのアパートであった。
 私の負傷は大きなものは二つだけである。前記の甲子園の場合と川口のレースで腕を折った二回だ。私は落草しないことでも有名であった。レースで最もいやな事故は、他人をひき殺して自分が生きていることであった。私は二人殺してしまった。あとになって、ああもできたのではないか、こうすれば殺さずに済んだのではないかと考え悩むものだが、その瞬間は目の前三十センチか五十センチのところを時速百`以上で走っていて、そいつが一瞬のうちに落車したとあっては、あっ、というひまもなく、それを突っかけてしまっているものだ。こんな生活をやめようかと考えるのは、こういう事故のあとのひと月だ。このひと月、同じことを繰り返し考え悩む。こういう事件については、私は何も書きたくないし、何も語る資格はない。ただ、いまもって死という言葉はきらいだし、めったに口にすることもない。軽々しくそれを文字にしたりロにしたりする奴に会うと、血が頭に逆流して怒りたいような気持ちになる。
 いつだったか、あるテレビ局からレース番組の協力を求められたことがあった。筋書きを書いた本のタイトルが「死の爆走」で、私は即座に「死」という言葉をはずさない限り協力はできない、といった。そしてタイトルから死の文字は消えていった。

八百長談義

 私のプロ選手としての生活は五年目あたりから上向き、常に本命と目され、弟子も多くかかえるようになった。しかし、プロ生活の水は甘くはなかった。暴力団がからんできたり、負けてくれとか勝ってくれとかいうことから師弟関係、人間関係が乱れ、いやらしくからみつき、選手としての自分の能力を完全に発揮できなくなってきた。
 レースにおける八百長を弁護するには二つの理屈がある。一つは選手がやる八百長などよりもっと悪質なものが、そのレースそのものである。一レース何千万円という売り上げのうち、配当金として支払うのは何%なのか。貧乏人の射倖心につけこむバクチの胴元は、それをやって発覚すれば資格をとり上げられる選手よりも悪質なものである。
 第二のものは、たばこをくゆらした観客が気まぐれに千円で買った車券が何十万円にもなるのに、選手は命がけで走って、その金額よりも少ない報酬というのは馬鹿らしい。だから、八百長も……という理屈である。しかし、私はこの二つの理屈には賛成しない。もちろん、この二つの理屈が理論的に間違っているのがはっきりしているからではない。そういう心情すら賛成できないのである。レースの八百長で私が悪いと思うのは、それは自分を信頼しているファンを裏切ることだからである。
 健二郎が出るんじや、このレースの頭は奴だ、と堅く信じこんで、なけなしのゼニで、私を本命として投じたファンを裏切ることはたしかによくないことだ。
 しかし、八百長にも選手側からの事情もあった。大怪我をして、長い入院生活で、妻子が食うものもないという場合、一種の共済組合的動機で八百長をやった。これを「入院八百長」といった。もう一つは「とむらい八百長」だ。これは選手が死亡した場合に遺族に贈る香典集めであった。
 八百長をやるにしても、選手は車券を買うのを禁じられているので、コースから観客席にいる仲間にサインを送ることにしていた。右手で左手の指全部を握ると「1」、手首が「2」、肘が「3」、肩が「4」といったサインである。

入院八百長”でブタ箱入り

 私がプロ選手をやめることになった直接の原因は「入院八百長」であった。私が世話になったことのある男が、長い入院生活で、生活が苦しくなり、私のところへやってきた。「田中、ひとつ頼む」と彼からいわれた私は、「よかろう、やってやろう」と引き受けた。だが、そのときのレースは年に何回もない大きな優勝レースだったので、本命である私が優勝を捨てるのはこちらのプライドが許さなかった。そこで私は二位になるであろう男を狂わせる工作をしてやろうと約束した。そして次に私は、二位になりそうな男二人に渡りをつけ、謝礼として彼等に一人何万円ずつやってくれと依頼者に伝えた。私は八百長の単なる仲介者なので、私と依頼者、そして二位にはいりそうな二人の男が集まり、依頼者が彼等に謝礼金を渡すのを見守っていた。そしてわれわれはジュースでもって、この「入院八百長」の約束を誓った。ジュースの代金は当然依頼者が支払った。
 この八百長が露見してしまった。私はジュース一本のおかげで共犯者となった。それが罪となる行為としりながら、それを黙認し、かつ主謀者の提供したジュースを飲んだこと、これすなわち「小型自動車競走法」第二十八条罰則に該当し……ということで選手資格を剥奪された。更に他の選手は懲役何年とかの実刑をいい渡たされたが、私は三十二人つかまったうちでは一番罪が軽かった。

嫌気がさして選手生活をやめる

 私の選手資格剥奪は、半年間謹慎していると回復できるということであったが、私はもうつくづくこの社会がいやになってきていたし、やりたいことはすべてやってみた。レースそのものに昔ほどの興味もうせ、酒におなごにバクチに八百長、それにやくざがからみ合ったこの世界に、それにもまして、そんな世界に身をおいている自分自身にもいやけがさしていた。「オラ、やーめた」もう、やーめた、と腹の底から叫びたい気持ちだった。
 幸い、その頃には九州のおやじの勘当もとけていたので、よし、おれは九州に帰って魚屋になろうとハラをきめた。しかし、そう決めるまで、私は浜松でぶらぶらしていた。いや、ぶらぶらというのは当たっていない。私は「左ノー」という寿司屋で包丁を握っていた。食うに困って寿司屋の板前になったのではない。レースをやめたとき、昭和三十三年、私には二百万円ほどのカネが残っていた。他人のウワサでは、このとき私は七百万円も残したという説があるが、それは間違いで、残ったのは二百万円であった。しかし、当時、いい若いもんが東京の私立の大学に四年間通うのに、学費から下宿代、小遣いまで入れて百万円あればこと足りた時代の二百万円なのである。
 寿司屋「左ノ一」のおやじとは、浜松のレースを通じて知り合い、えらく世話になった。この店で、私は本田技研のおやじ(本田宗一郎社長)と出会ったのである。しかし、この話はあとにする。

風呂にも序列があったギャンブルの世界

 オート・レースには出場車の排気量別に級が設けてあった。一級とは一二〇〇とか妄一五〇〇CC、二級が七五〇CC、三級が五〇〇CC、四級が三五〇CCで、この四級にはAIS、トライアンフ、マチレス、ノートンなどといったいいクルマが沢山あった。五扱が二五〇CC、六級が一二五CC、七級がトーハツの前身ともいえるビリアスの二サイクル一〇〇CC車が走っていた。
 プロ選手の社会では、この「級」は軍隊の肩章の星一つに相当した。たとえ選手になるのが早くても、この級によって厳然たる格差がつけられていた。レース場の風呂にはいるにも、この級の高い方からである。夏はいいとしても、冬に風呂を待つときの寒さは身にしみたものだった。私は第一レースで、十時半で終わりとなるが、一級車の人が風呂にはいるのは午後四時半なので、それまで泥に汚れたままで辛抱しなければならない。そのうえ、自分の師匠が三級車に乗っていて、そのレースが三時ころ終わるとする。すると私はそのおやじさんのからだを流してやっても、いっしょには風呂にはいれない。師匠の三級車と私の五級車との間には、四級車の人がいるからだ。私はこういう下積み生活を三年続けた。当時の私の師匠は福岡の中野さんという人だった。プロ選手の社会にはこのような親分、子分の関係が厳しく守られていた。
 二十年近くも昔のこういう親分子分のつながりを、いま若い者にその厳しさ、その美しさを説明してもわかってはもらえないだろうが、ただ一人、高橋国光はそれを完全にわかってくれた。私と奴は親分子分の立ち場を保ってきたが、彼以後の長谷見とか、生沢にそれを押しつけるわけにはいかない。これはまさしく世代の相違、世の中の流れというものであろう。

逆ハンの健二郎”

 ギャンブル時代の私の異名は「逆ハンの健二郎」といわれた。単車にはじめて乗ったとき、偶然にやったのが「逆ハン」であることを考えると、目に見えない何か神秘的なものを感じる。
 七年間のギャンブルの選手生活で、はじめの二年間は全くの下積み生活で、芽のでなかった私も、三年目ぐらいから次第に勝つことを覚えてきた。引退前の昭和三十〜三十二年にかけては、走っていて負ける気がしなかった。特にビッグ・レースでは絶対に(頭)をとった。
 私の作戦としては、最初からトップにでないで二番手〜三番手の好位置につけていて、最終回一気に、得意の「逆ハン」を生かして、コーナーで勝負をつけて、追い抜いていくという戦法をとった。もっとも、これは二百五十メートルとか、三百メートルの最高のハンディをつけられていたせいでもある。
 だが雨の日は、こういった戦法をとらずに、最初からぶっ飛ばしていき、頭にでて逃げ切る戦法をとった。その理由は、なんといっても雨の日は、ダート・トラックでは、先頭に出ないことには、先行車の泥を、まともにかぶったり、コースの状態をよく見きわめられないからである。
 こうして私は、昭和三十一年から実施された(グランプリレース)を、第一回、第二回(昭和三十二年、この年前記のような理由で引退)と連続制覇した。このレースは毎年一回、現在まで十三回開催されているが、連続制覇したのは私だけである。このほか通産大臣杯とか、タイトルのかかっているレースは、かたっばしから優勝した。そんな私は、選手仲間から「カップ泥棒」と呼ばれた。
 今私の手もとに、昭和三十二年の賞金取得者一覧表がある。一位が私の三百六十七万二千五百円。二位が秀平善貞二百九十六万九千四百円。三位稲垣国光二百八十七万六千二百円。
 この他に参加手当て、出走手当てがついたので年収は四百五十万円ぐらいだったと記憶している。貸弊価値を換算すると、今のゼニで一千万円ぐらいの年収だった。


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