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      ホンダに生命を賭けた男 鈴木義一

   (モーターサイクリスト 1963年11月号掲載)

 9月28日、午後10時。霧の深いユーゴスラビア山中で一つの悲劇が起った。暗闇の公道で接触した車の一台は、崖下へ転落、ドライバーが死亡したのだ。ドライバーの名は鈴木義一。
 この悲しいニュースがもたされた時、生前の彼を知る総ての人々は、その知らせを真に受けなかった。しかし、彼の死は事実であった。堅実無比なドライビングを定評にしていた彼。その彼が、ほんの一瞬、不可抗力の一瞬に直面して、何を考え、如何に行動したか―。それは・・・・永遠に解けぬ謎である。
 「義っちゃん」と呼ばれ、誰からも親しまれ、尊敬された彼。浅間で、スズカで見せた渋みのあるライディングも、過去のものとなった。
 享年32才、節子夫人(25才)との間には1男1女がある。

第2回の浅間火山レース(1957年)では、350ccクラスに優勝した。車はホンダC-75Z 305cc―このレースでベールをぬいだ。OHCツインのエンジンを積んでいた。 1955年(昭和30年)浅間のレースには、250、350両クラスに出場し、350ccクラス(ライトクラス)では5位に入賞した。写真は250ccクラスのレースのもので、浅間牧場内の不整地をジャンプして通過しているところ。 ストレートを疾走中の鈴木選手。黒のフレームに、真紅のタンクは、ホンダ歴代レーサーの標準色として、今の時代まで受け継がれている。
ライト級(250cc)レースで、同僚の加藤とヘアピンを抜けるところ。彼はこのレースで、前半トップで走ったが、50Rで転倒し周遅れの6位にとどまった。 最後の浅間レース(1959年)終了後の記念撮影。後列右から二人目が鈴木選手である。この年のレースには、マン島帰りの125ccと、ようやく完成した250cc4気筒マシンを出場させて、両クラスに圧勝した。
濃霧のコースをホンダ“フォア”RC-160で走る。視界50m以下の濃霧の中で、島崎貞夫、田中健二朗と追いつ追われつの大接戦を演じ結局3位となった。 TTレース 125ccスタート前のひととき。練習中に右手を負傷し出場を危ぶまれたが、友人とかコミッション・ドクターのOKをとり走った。レース結果は7位であったが、6位の谷口尚己、鈴木淳三(11位)と共にチーム優勝を遂げた。 “遺影を抱いて”。マン島遠征チームのライダーとして決定していた秋山邦彦は、本田社長の伝記映画“妻の勲章”の撮影協力中、不慮の事故で死亡した。親友の遺影を抱いて走った各ライダー。右からニ人目が鈴木義一選手。
1959年、マン島初遠征。宿舎のラムゼイ・ナースリイ・ホテルの中庭にて。中央の鈴木選手をはさんで左に、谷口尚己、田中禎助、一人おいて、飯田孝佳、右へ鈴木淳三、ビル・ハント、河島喜好、関口久一の諸氏。
翌1960年もホンダ・チームはマン島に遠征し、彼もそのチーム・ライダーの一員であった。 初めてマン島に姿を現したホンダ・フォアに乗り出場した彼は、第1周目同僚ライダーのリーダーとして健闘したが、2周目ミッション・トラブルが発生、クォーターブリッジで脱落した。
マン島TT 125ccレース、クォーター・ブリッジにおけるスナップ。前年とは異なり困難なマウンテン・コースで行われたこのレースで、彼は7位に入賞した RC-161と鈴木選手。250ccレース発送前。スタート・ライン上で河島監督(左)と最後の打合せ中。 1960年ダッチTT(バン・ドレンチ)。250ccレースにてホンダ・フォアが最も苦戦を続けたのがこの頃であった。
カー・ドライバーに転身した彼は、第1回日本グランプリ・レース(1963年5月)にフォルクス・ワーゲンで出走し、C-4クラスで見事に優勝した。 スズカ・パドックにて。メカニックを務めた折懸六三(右)と語り合う。 8月30日、AP電。「日本のレーシング・ドライバー鈴木義一は、8月27日、古我信生と共にスパ・ソフィア・リエージュマラソン・ラリーに出場した。翌日鈴木義一は、ユーゴスラビア国内を走行中に死亡した」。写真は、スパをスタート直前、愛車ホンダ・スポーツ500の前で撮影したものである。

■秋山邦彦逝って4年半■

 昭和34年4月4日―――夕暮れ近い豪徳寺境内に、数十の花輪が飾られ、静粛な森に包まれた本堂から、幾筋もの焼香の煙がのぼっていた。東京の西南、世田谷に在るこの寺は、古くから由緒もあり有名である。普段なら、和尚の読経に合掌する焼香の群れが見られるのだが、この日はちがっていた。行進曲に似た勇ましい合唱が、本堂から境内一杯に流れ散り、集まった人々の涙をいっそう深めていた。

1.揃う身支度 心意気
  整備 乗車 訓練も 固く誓った 俺 お前
  きっとやろう どこまでも
2.スピードクラブの名に恥じぬ
  チームワークの結晶が 一糸乱れぬ編隊で
  爆音残して賭けてゆく
3.砂塵 ぬかるみ 車 事故
  生死の境 かず知れず ぐっと開いたアクセルも
  あの子想えば ついにぶる
4.レース目ざして 血のにじむ
  練磨できたえた腕のさえ にぎるハンドル夢乗せて
  心はマン島に 飛んでゆく

 ここまで書けば“ああ、ホンダスピードクラブの秋山か”と、当時を思い起こす人も多いと思う。この涙の合唱は、3日前の1日、大映劇映画「妻の勲章」(中山正男原作)のロケ中、箱根山中の元箱根路上で24才の若く短い生涯を終った、故秋山邦彦の告別の式であった。そこには喪服に身を正した本田社長以下会社の幹部の姿も見られた。
 ホンダスピードクラブの主将であった鈴木義一は、その時、故人秋山邦彦が作詞作曲したホンダスピードクラブの歌を、彼の霊前で、クラブ全員とともに涙にむせびながら歌い続けていた。
 その年の6月、彼等がひたすら願ってきたマン島初出場の夢は実現した。そして、世界制覇のホンダの勇ましい前進は開始されたのであるが、この悲願達成のため、常に最先端で着実な前進を続けてきたホンダの社内ライダーの巨星鈴木義一は、秋山のあとを追うかのように去る昭和38年8月28日午後9時15分、遠い異国のユーゴの地で、再び帰らざる人となった。秋山邦彦が逝って4年5ヶ月、ホンダの巨星は消えた。

■名古屋TTに出場■

 鈴木義一は、浜松市米津、今、スズキのテストコースのある近くで、万一郎、しお夫婦の4男として昭和6年4月6日に生れた。5男1女の4男として育てられた義一は、子供の頃はごく平凡でおとなしかった。別段頭脳が優れていたわけではなかったが、機械いじりは好きな方だった。近くの新津高等小学校を卒業すると浜松工業高校に進み、昭和26年卒業した。学生時代からスポーツマンで、陸上競技は円盤投げが得意であった。アマチュア・ボクシングもやった。その傍ら、ラジオ工作やロケット実験にも興味をもち、自宅の牛小屋を改造し、そこを工作室として楽しんでいた。スポーツマンとしてのキャリアは、国体に2回も出場していることでもわかるが、大体のスポーツはこなした。国体は静岡県代表として、円盤投げとボクシング(ライト級)に各1回出場したことは、彼の青春時代の健全さを物語っている。浜松工業高校を卒業した昭和26年3月、母校の教師の推めで本田技研工業(株)に入社した。配属されたのは野口工場(浜松市内)であったが、まだ本田技研の全従業員が300名そこそこで、彼は組立工としてエンジンの組立試運転をやらされた。組立したエンジンが、どんな回転をするか、テストする役目である。
 それから2年の歳月が流れた―――。昭和28年3月21日、名古屋タイムス社の主催で、第1回名古屋TTレースというのが開催された。名古屋市熱田神宮前を出発、岡崎―挙母―瀬戸―多治見―太田―鶏沼―岐阜―大垣―高田―石津―桑名―津島を経て、名古屋市中村公園大鳥居前にゴールする233qコースであった。
 競争するクラスは150t以下の国産車で、国内メーカーから一社3台がチームになって出場した。ホンダ、スミタ、モナーク、エーブ、ポートリー、昌和、ポインター、IMC、BFビクター、クインロケット、パール、オートビット、ライラック、ゼット、テンリュー、ライフ、ホダカなど19メーカーから55名の選手が出場した。
 この時、ホンダからは鈴木義一(21才)、中村武雄(22才)、徳永康夫(18才)が出場し、鈴木4位、中村18位、徳永2位となり、総合では1位でチーム賞を飾った。 この名古屋TTレースが鈴木義一の初出場でもあった。まだ、日本ではロードレースの認識もなく、一般路上でのレースとしては戦後初めてのもので、愛知、岐阜、三重の三県にまたがってのレースのため、各県警の取締り態度も異なり、途中で10分間の休憩があったり、お巡りさんと選手が口論を始めるようなスナップも見うけられた。
 ホンダチームは、あの懐かしいチャンネルフレームに銀線の入ったドリーム3E型OHV146(最高出力5.5HP/ 5000rpm、最高速度75km/h)を馳って出場した。まだヘルメットも普及しない頃で、鈴木義一は皮製の防寒帽を冠り、布製のジャンパーを着て233kmを走り続けた。
 それから2年後の昭和30年7月10日、第3回富士登山レースが日刊自動車新聞社の主催で静岡県富士宮市で開かれた。浅間神社前をスタートとして登山の林道を2合目まで走る24.2kmのコースであった。ホンダからは125ccクラスと250ccクラスに出場した。ヤマハが生産を開始して間もない頃だった。必勝の陣を引いて出場したヤマハとベンリィとの闘いは観衆の注目を集めた。この時、鈴木義一は、野村有司、鈴木淳三らと共にドリームSA250ccで出場した。彼にとっては名古屋に次いで2回目のレース出場であった。4年間レースを生活を共にしてきた。鈴木淳三は、彼に約3ヵ月遅れて本田技研に入社した。彼と同じ野口工場で部品検査をやっていたが、彼と前後して埼玉工場へ転勤していた。

■富士登山レースで2位に入賞■

 レースに出場することが家族にわかったのは富士登山レースの時だった。名古屋TTの時にはわからずに済んだが富士登山の時には両親にもわかり、反対された。三人の男児を第2次世界戦争の犠牲として傷つけられた親にとってみれば、無理もない反対であった。長男の勲は海軍航空隊の整備士をやっていたが、その後パイロットになり、27才の時フイリッピンのネムルス島上空で戦死した。次男の正夫は陸軍、24才で南洋テニアン島で同じく戦死した。三男の村夫も、この戦争で片目を失明する傷痍軍人となったのである。手塩にかけて育てたわが子を二人失い、一人傷ついた両親の悲しみと落胆は大きかった。おまけに「名誉の戦死」とされたわが子の死も、敗戦という二重の苦しみで傷めつけられたのだから、残る義一や五男の弘の身上について、自然と大事をとらせたくなるのは当然であった。だが彼は一度志したレーシングライダーへの道を曲げなかった。富士登山レースででは250ccクラスに2位で入賞し、その安定した走法が、関係者にも目につくようになってきた。話は前にもどるが、昭和27年4月埼玉工場の建設操業のため、浜松から2ヵ月ほど出張したが、そのまま埼玉工場に転勤することになった。この頃は、独身寮に帰ってもエンジン関係の書物を引き出してはよく読んだ。盆休みで周囲の人達が映画や海に出かけても、一人で参考書にかじりついてたものだった。埼玉工場では、その頃、船橋や川口のプロレースに出場していたホンダの大村美樹雄や藤井ワ美のレーサーを整備するのが彼の役目であった。鈴木義一は川口や船橋のプロレース場に出入するようになってから、モーターサイクルレースへの出場意欲が、こと更強くなってきたようだ。
 レース場へ通う途中、よく白バイや一斉にスピード違反でつかまっては罰金をとられた。その頃は、アップハンドルの時代だったが、自分で改造してドロップハンドルをつけて走ってはマン島出場への夢を追い一人悦に入っていた。
 部品検査をやっていたが、彼と前後して埼玉工場へ転勤した。そして名古屋TTや富士登山レースに出場した後も、川口や船橋へレース場通いは続いた。そのため、レーサーの整備については彼の右に出る者がいない位の技術を身につけるようにまで成長していた。 浅間レースは昭和30年に始まり、クラブマンレースを含めて昭和34年まで4年間続いたが、いづれの年もホンダチームにとっては苦しいレースであった。昭和30年11月5日〜6日の第1回は1周24kmの一般公道で開かれた。125ccクラスは伏兵ヤマハのもとに降り、250ccクラスは天才ライダーといわれた若冠16才の伊藤史朗のライラックに破れた。そして350ccクラスでは彼は5位、鈴木淳三は500ccクラスで1位であった。第2回目は現在のテストコース1周9.351kmの竣工した年であったが、125、250の両クラスとも駿足ヤマハに再敗を余儀なくされた。その翌33年8月には第1回クラブマンレースのため、メーカーチームは出場できず、国際レースクラスのみに出場し、その翌34年にはマン島から帰った彼を含む谷口尚己、田中禎助らが出場した。しかし浅間時代は、ホンダにとっても、彼にとっても苦節の多い時代であった。何時も優勝の本命と目されながらも、予想外の不振に終ったり、思わざる不運に出会ったりした。いわば苦難の多い試練時代でもあったが、鈴木義一は終始、ライダー達のキャプテン格をつとめ、沈みがちな志気を鼓舞したり、独走しがちな尖鋭ライダーを押えたりして、監督の河島喜好を助けた。

■反省力に富み円満な人格であった■

 昭和31年1月15日の成人の日、鈴木義一は吉岡節子と結婚した。同じ職場で働いていた彼女と、激しい恋愛の末、目出度く結ばれた。式は浜松の実家に帰って挙げた。この時鈴木淳三も彼と同じように、同じ職場にいた須田松枝と恋仲であった。仲の良かった彼等二人は一緒に同じ日に挙式しようではないかと話し合っていたが、お互いの都合も悪く、鈴木淳三はこれより3日後の1月18日に式を挙げた。姓も同じこの二人は、顔の輪郭も似ていて、よく兄弟ではないかと間違えられた。昭和34年6月、マン島へ初出場した時も、この二人は一緒にクリプスコースを走ったが、アナウンサーや観衆はどちらが
J.SUZIKIで、どちらがG.SUZUKIなのかわからずにとまどったりした。そして“J.SUZUKIとG.SUZUKIは兄弟か?”という質問が、日本人に浴びせられたりした。実のところ、義一と淳三は、姓が同じでライダー仲間というだけでなく、私的な面での交際も深かった。それは2人の妻同士が知り合いであったことも幸いして、この両家を併せて、4家族のマージャンの会は、毎月1回、各家庭を廻って7年間も続けられていた。
 そのマージャンの会も、彼の死によって中断することになったと淋しがる鈴木淳三(現在本田技研東京支店サービス課)は、在りし日の彼を次のように述懐している。
「二人の交った歳月は長かったし、一緒に走った年数も長かった。僕はマン島初出場を最後としてレース界を引退したが、優れたライダーとしての彼が現役で残ったのは当然でもあった。彼はレーサーの整備から入っただけあって、メカニックの知識も詳しかったし、細かい神経が整備の面に働いていた。またライダーとしても慎重そのものであった。決して危なげな走り方をしたり、納得できないような走法はトレーニング中といえども唯の一度もなかった。コースに出ると、走り出す前によくコースの状況を頭に入れることから始めていた。そして、走ってみて、思うように走れない個所をチェックしておき、そこに出向いて有名ライダーの走り方を眺め、自分の走法と比較して“ああ、俺の走り方は、ここが悪いのだナ”という反省をくり返してトレーニングを重ねるというようなタイプであった。対人関係はとても大らかで、大ざっぱであった。凡らく彼を悪くいう人もなければ、彼と口論したという人も少ないはずだ。彼は何時も自分自身を反省していた。そして少し言い過ぎたかナ?自分が間違ってたかナ?という点が心配になると、友人に相談して意見を求め、己の非だと思った時は自ら相手に頭を下げて謝るという人物だった。こういうことは、仲々言うは易いが、その立場に立つと、仲々出来ることではない。が、彼はそれを若い頃から続けていた」――と述べている。
“自分のペースを知って走らなければいけない”ということを口癖にしていた彼が、自らハンドルを握っていての事故だっただけに、彼を知る周囲の人々には意外な惨事であったし、ショッキングであった。

鈴木義一の主なレース歴

  【開催年月日】          【レース名 クラス】          【順位】
昭和28年3月21日      名古屋TTレース 150ccクラス     4位
昭和30年11月5日      第1回浅間レース 250ccクラス     脱落
昭和30年11月5日      第1回浅間レース 350ccクラス     2位
昭和32年10月19〜20日 第2回浅間レース 250ccクラス     6位
昭和32年10月19〜20日 第2回浅間レース 350ccクラス     1位
昭和33年8月24日      第1回クラブマンレース 国際      3位
昭和34年6月3日       マン島TTレース 125ccクラス     7位
昭和34年8月23日      第3回浅間レース 250ccクラス    3位
昭和35年6月13日      マン島TTレース 125ccクラス     7位
昭和35年6月25日      ダッチTTレース 125ccクラス     6位
昭和35年7月3日       ベルギーGP 125ccクラス      12位
昭和38年5月3日       第1回自動車レース 1000ccクラス 1位

 「なんだか、まだ夢のようで死んだとは信じられない」と目をうるませて語る谷口尚己(本田技術研究所・レーサー試験室)は、彼に育て上げられて今日のレベルまで到達したライダーでもある。いわば故人の愛弟子だ。
「義一ちゃんのことなら、1頁でも多く記事にしてもらいたいんです」と大粒の涙と共に語尾がかすれてゆく――。
「義一ちゃんとは昭和29年からです。僕をここまで育て上げてくれたのも彼でした。マン島初出場の時も「とにかく俺より1台でも2台でも良いから先に立てヨ。俺に負けてはいけないよ!」といってくれました。結果は僕が6位で義一ちゃんが7位だったが、あの励ましの言葉がなかったら、とても6位には入賞できなかったでしょう。
 僕達に常日頃言っていたことは、乗り物は危険なものだ。どんなことでも後にしてはいけない。気づいた時、その場で処理することだ。自分で乗る車は自分でよく手入れをすることだ。そうすると不良個所も事前に発見できると言っては。暇があればレーサーの手入れをやっていました。僕達は未熟なところが多いので、よくミスをやるんですが、その時もガミガミとは言わず、「こうした方が良かったんではないか?、どうだろうか?」というようにたしなめてくれました。いわば死んだイギリスの名ライダーマッキンタイヤに似たタイプでした。
 今年の3月の終りの頃の事でした。スズカサーキットへ出かけてホンダスポーツ500の長期耐久テストをやっていた義一ちゃんから、僕あてにテレタイプが入ったんです。「4月1日の命日には行かれぬから、君だけ行って来てくれ」――4月1日は秋山邦彦の命日なんです。毎年この日には、彼の生家の世田谷まで二人で出かけ、焼香して秋山の冥福を祈っていたんです。マン島初出場を目の前にして事故死した秋山は、僕達は今考えても惜しい死でしたが、故人秋山はそれ以上無念であったはずです。その故人の無念さを、なぐさめてやろうという義一ちゃんの思いやりのある心は、4年後の今日も変わりはなかったんですが――、今は、秋山と同じように僕達のそばから離れて遠いところへ・・・・・」 関口久一(本田技術研究所長付)も、3年間彼と共に海外GPレースを闘い抜いてきた人だ。「テストライダーとしてレーサー設計上や改造面に貢献してきた彼の力は大きかった。ライディングポジション、操縦性、安定性など、自分一人の意見を通すのではなく、どのライダーにも共通するネックを探し出して意見を述べるというタイプであった。自分本位の立場で考えを述べたことは一度もなかった。整備の面では、「自分達のミスでライダーの生命を奪うようなことがあってはいけない!」と、神経質すぎる程の気をくばったと語る。

 9月4日ユーゴスラビアから空路遺体が運ばれてきた。遺体は金属板で密閉され、その上を木箱で包まれていた。お通夜の晩、その蓋が開かれて近親者は最後の別れを惜しんだ。その顔は普段の鈴木義一と全く変わりなかった。ダンロップマークの入ったジャケットを着た彼は、ゴールインする時のような顔付きで、棺の中に横たわっていた。棺の周りにはユーゴから運ばれてきた百日草の花が、美しく飾られていた――。
 浜松時代からの上司で、またホンダレーシングチームの育ての親でもある河島喜好(現在本田技研埼玉製作所所長)は、大きな目に光るものをたたえながら「レースといえば義一というぐらい、私とは深い仕事上の交りが何年か続いた。私のような短気な人間がチームマネージャーを何んとか勤まったのは、ライダーのキャプテンとして、ライダーの相互関係を上手くまとめてくれたからだ。外人ライダーが乗っても文句を言われないところまでマシンを作り上げたのは、テストライダーとしての鈴木義一の功績が大きかったからだ。
 一見ヒョウヒョウとしていて優柔不断のように見えるが、反面、これを正反対の神経質で機敏のところも内面にあって、巾の広い性格の持主であったと思う。今回のリエージュラリーはホンダもカーレースを1年生からスタートするので、その礎石として一翼をになっての出場であった。勿論彼もカーレースへの転向を考え、その方向への前進を開拓していた矢先だっただけに、彼の逝去は惜しまれてならない。
 TTレースに初参加してメーカー優勝できた時の彼の喜び勇んだ姿が、昨日の出来事のように目の前に浮んで離れない。だが、リエージュラリーという国際レースのしかも本番での死だ。秋山邦彦のようにロケ中死、渥美勝利のようにトレーニング中の死、これも同じ死には違いないのだ。この二人の死と比べてみれば、本番レースの最期であったことは遺族にとっても、我々にとっても、せめてものより処であった」と瞼をうるますのであった――。

■避けられない惨事だったのか?■

 ところで、関係者の述べるように、性格も慎重で今まで事故を起したことの無い鈴木義一がどうして?このような大惨事を起す破目になったのだろうか。現地からの報告や同乗した古我信生の話によると――。
 8月27日、ベルギーのリエージュ広場には各国から集まった129台の出場車が集まった。各国旗がはためく中に、日の丸が一段と高く飜えるのが目にしみて印象的であった。ホンダスポーツの2台には現地人が集まり、DOHC4キャブの精巧さに驚異の目をむけ「ビューティフル!」を惜しみなく浴びせていた。リエージュからスパまでの50kmをパレードした選手達は、午後10時より3台づつスタートした。
 スタート間隔は3分で我が日本の鈴木、古我組は午後10時57分にスタートした。途中ハンドルを交替しながら、8月28日、オーストラリアとイタリアの国境のパツンデレジアから、クランユスカ・ゴラまでハンドルを握った古我は、鈴木にハンドルを渡した。古我は鈴木と交替すると5分もたたないうちに眠りに入っていた。それでもチェックポイントのユーゴのルブリヤーナに着いた時には目を開けた。だが依然トップグループに伍して、減点は少ないほうだった。交替してから1時間40分程の時間が過ぎ、鈴木義一の運転するホンダスポーツ500は、ルブリヤーナ郊外20kmの地点のビミシャラゴラを走っていた。
 惨事はここで起きたのだ。ビミシャラゴラとは“高くなったところ”という意味があるが、その通りこの地点は道路が高くなり、又低くなる見通しの悪い視界30mの地点である。上り終って下りにかかった時、すぐ前方をトラックが徐行か停止している場面にぶっかった。ユーゴは右側通行であるが、左ハンドルのホンダスポーツは、トラックをよけるために、道路の中心線を越えた。運悪く反対側からはフランス人運転のルノーが走ってきた。そのルノーの右側バンパーと接触したホンダは、そのはずみでガードレールにぶつかり、それを乗り越えて空中を約20m飛び、崖下4m程の地点に落下、木と木に挟まれて停った。午後9時15分頃と推定される。
 そのショックと衝撃で、鈴木は左肺部を強打し内出血のため、危篤状況になった。眠っていた古我は救急タンカの中で目をさました。意識はかすかにあった。事故発生後20分位で二人は収容された。重体の鈴木は病院へ、意識のある古我は近くの診療所へ別々に運ばれた。病院へ運ばれて応急手当は加えたが、鈴木を再生させることは困難であった。古我も肋骨骨折、腕部などの打撲が大分ひどかった。古我は最近ようやく歩けるようになったが、まだ全快までには相当の日時を要する。一緒に走り、自分だけ生き残った気持は、精神的にも苦痛であると訴えている。出来ることなら、明年も出場して好成績を挙げたい。それが鈴木義一の霊を慰める唯一の途でもあると心を固めている。
 そしてドライバーとしての鈴木義一のテクニックはモーターサイクル・ライダーから鍛え上げただけに、抜群であったし、その沈着冷静さは、遠く古我も及ばなかったと付け足している。
 この言葉からも、凡らくはこの大惨事はさけきれなかったのかもしれない。
鈴木義一の霊の安らかな眠りを心から祈っておこう。


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