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(6)50cc世界選手権を獲得(昭和37年)

 遠征計画も半ばで挫折した昭和36年(1961)、その不振のどん底で、3回目の挑戦計画が立てられた。36年の暮れに、翌年からは50ccが新しく世界選手権レースに加えられることが決定した。これに基づいて、50cc、125cc、250cc3種目出場を目標にした準備が始められた。正月休みはもちろん返上である。 

 外人ライダーには、輝かしい戦績のあるデグナーが新たに加わって、アンダーソン、ペリス、日本人ライダーとしては伊藤光夫、市野三千雄、鈴木誠一(城北ライダース)、森下勲と、強力メンバーを組んで昭和37年(1962)のシーズンを迎えた。

 満を持して臨んだスペインの第1戦、続いてのフランスの第2戦とも、戦績はまたしても芳しくなく、125cc、250ccは思わぬトラブルで完走も思うにまかせぬ有様であった。50cc4台、125cc3台、250cc3台の出場車に対して、メカニックはわずかに3名で、トラブルのため徹夜の連続となった。これではメカニックを殺してしまうと、社長に電報を打って、「250ccの参加は取り止める」との許可をもらう一幕もあった。

 こうしてレースチームの苦闘が続いている間に、本社では必死の出力アップ実験が行われ、ついに50ccの大幅な出力アップに成功した。TTレース公式練習も中盤となった5月28日、新エンジン、新マフラーが現地に到着した。メカニックも久しぶりに笑顔を見せてエンジンの載せ換えが始まった。29日、30日、続いて6月2日の公式練習を通じて、デグナーは30分42秒6の公式タイムで1位となり、念願の初優勝も夢ではなくなった。

 6月8日の当日になるとマン島は快晴に恵まれて絶好のレース日和となった。午前10時30分、ウォーミングアップを開始した33台の50ccレーサーの排気音が、島の空気を揺るがせた。やがて11時ちょうど、車番2のデグナー(スズキ)が鋭く発進した。10秒遅れてミンター(ホンダ)と市野三千雄(スズキ)、さらに続いて10秒刻みに、島崎(ホンダ)とアンシャイト(クライドラー)、ロブ(ホンダ)、ゲートリッヒ(クライドラー)とタベリ(ホンダ)、ショーレイ(クライドラー)と伊藤光夫(スズキ)・・・・・・1分40秒遅れて鈴木誠一(スズキ)と、続々とスタートが切られた。マン島TTレースでは、このように10秒刻みに2台ずつが車番順にスタートする。

 スタートから32km地点のサルビーブリッジでは、先頭はデグナーだ。スタート時差を入れても、2位タベリ(ホンダ)に9秒の差をつけている。レースはやがて第1周から第2周に入った。トップは依然デグナーで、以下スタート時差を修正した順位は、2位タベリ、3位ロブ、4位アンシャイト、5位市野、6位伊藤、9位にTTレース初出場の鈴木誠一という順である。タベリ、ロブのホンダ勢に15〜16秒の差をつけていたデグナーは、ますます好調で、2位との差はさらに広がるばかりである。

 ついにゴール。デグナーはものすごいスピードで飛び込んできた。2位との差はまさに18秒、文句なしの勝利である。途中一度も他車のリードを許すことなく、起伏とカーブの多い難コースを、スタートからゴールまで走り続けたのである。デグナーの2周目のラップタイムは29分58秒6、平均時速121.54km、2周のレースタイムは60分16秒4、平均時速120.9km。「初めて行われた50ccレースは、”信ずべからざる””嘘のような””驚くべき”スピードの記録で終了した」と各誌は報じた。

                      
         
レース前宿舎の前庭で            50cc スタート直前、先頭のAは優勝したデグナー    1962年50ccメーカー選手権獲得

 TTレースの長い歴史を通じて、2サイクル・レーサーの優勝は、1938年ドイツのDKW250以来なかった。したがって「この厳しいマン島では2ストローク・エンジンは勝つことができない」ということが、いつの間にかジンクスとなっていた。スズキはこのジンクスを破った。しかも見事な”全く信ずべからざる”記録で優勝したのである。

 TTレースでのこの勝利は、ライダー、技術員に絶大の自信を与え、オランダ、ベルギー、西ドイツと、次々に行われたレースでも、圧倒的な連勝を収めた。そして最終戦アルゼンチンではついに念願の50ccクラスのメーカー選手権を決定し、個人選手権もデグナーの手中に収められたのである。

 ただ、西ドイツの後のアルスターGP125ccでデグナーが転倒負傷して東ドイツ、イタリアと出場できず、選手権の行方を巡って冷汗をかく思いをしたことがある。東ドイツのレースから、デグナーに代わって大柄のアンダーソンが起用されたのであった。彼がよく38年(1963)と39年(1964)の50ccチャンピオンを獲得することを、当時予想した者はいなかった。

 125cc、250ccは、性能面では充分優勝を争える車でありながら、安定性に欠けたために好成績を残すことができなかった。

 なお国内では、この年9月、我が国で初めての完全舗装のレース・コース鈴鹿サーキットが完成し、11月3〜4両日、第1回全日本選手権ロードレースが盛大に催された。

 50ccレースで、初めデグナーが独走態勢にありながら4周目で転倒、続いてトップに躍り出た市野が楽勝を思わせたが、これまた最終ラップで転倒して優勝はホンダのロブに奪われた。しかし、2、3、4位には、アンダーソン、森下勲、鈴木誠一と、いずれもスズキが入賞し、実力の程を見せた。

 125ccレースは、スズキ、ホンダ、ヤマハ、トーハツの決戦となった。安定性を増したスズキ125ccは、よくホンダに食い下がって、2位にペリス、6位に越野が入賞した。38年度(1963)になって大活躍する2気筒125ccの試作車(RT63X)には、アンダーソンが乗って出場した。

(7)最大の盛り上がりを見せたレース(昭和38年)

 前年末の鈴鹿のレースで125ccにも自信を持てるようになり、大幅に性能を向上された50ccに加えて、前年新しく開発された2気筒125ccを準備して、1963年GPレースに挑み、全レースを通じて一番大きな話題となった。出場ライダーは、デグナー、アンダーソン、ペリス、伊藤光夫、森下、市野にオーストリアの新進シュナイダーが加わった。

                      
               
RM63 50cc レーサー                               RT63 125cc レーサー

 125ccは、第1戦のスペインこそ、トラブルや転倒で全車落伍の悲運をかこったが、第2戦の西ドイツから第9戦のフィンランドまで、破竹の勢いで8連勝を遂げ、第8戦の東ドイツで、早くもメーカー選手権、アンダーソンの個人選手権が決定した。

 TTレースでも、1位アンダーソン、2位ペリス、3位デグナー、5位シュナイダー、とスズキは圧倒的な勝利を収めた。

 50ccクラスは、スペイン、フランス、フィンランドでは、クライドラーのエース、アンシャイトに敗れはしたものの、着実に勝利を重ね、アルゼンチンで2年連続のメーカー選手権を獲得した。これを祝って、10月4日、浜松市民体育館に全社員、代理店、協力工場、報道関係者その他多くの人々が集まって、2年連続メーカー選手権獲得祝賀会が盛大に催された。個人選手権は最終の日本GPまで持ち越されたが、結局125cc同様、アンダーソンに決まり、アンダーソンは50cc、125ccのダブルタイトルを獲得した。

 TTレース50ccでは、レース後半までデグナー、伊藤、アンダーソンの順位で、125ccと同様に1、2、3位をも独占するかと思われたが、デグナーのトラブルリタイヤーのため、優勝伊藤光夫、2位アンダーソン、4位森下、5位市野となった。伊藤の優勝は、TTレースにおいて日本人として初の優勝で、マン島の空高く、初めての日章旗をひるがえした。異国の空に高々と日章旗が掲げられ、勝利を祝福する君が代のメロディーが流れるのを、メカニック一同は万感の思いで聞いた。

                      
              
マン島での表彰式(中央は鈴木俊三社長)          6月14日21時20分伊藤光夫優勝の国際電話が守衛所に入った

 それまでいい知れぬ苦労に黙々と耐え、目立たない努力を重ねてきた結果がこの日の晴れの栄光となって報いられたのである。喜びをじっと胸に噛み締めながら、さらに今後のスズキの躍進を誓い合ったのであった。ベルギーでも森下が優勝して、日の丸が掲げられた。これらの勝利の成果に対し、レース団および研究三課に社長表彰が行われた。

 最終戦の日本GPレースでは、50ccクラスでホンダの新開発の2気筒に乗ったタベリに苦杯を喫して、2、3、4、5、6位となった。125ccクラスは、これもホンダの新開発の4気筒レーサーとデッドヒートを展開したあげく、ぺリスの大活躍で優勝した。250ccクラスには世界で初めての2サイクル水冷4気筒を初出場させたがデグナーがスタート直後転倒し、レーサーは炎上、デグナーも顔面に大火傷を負った。このためデグナーは、その後1年間、レースから遠ざかることになってしまった。

(8)3年連続の50ccタイトルを獲得(昭和39年)

 昭和39年の世界選手権レースには、50cc、125ccのタイトルの連続獲得を狙うことはもちろん、250ccでもタイトルを獲得することを目指して、参加した。

 50ccクラスは、前年の日本GPに初登場したホンダの2気筒と、アンシャイトを擁するクライドラーとの三つ巴の接戦となたが、アンダーソンの大活躍で3年連続メーカー選手権を獲得することができた。アンダーソンは2年連続しての個人選手権も手に入れたのである。

 TTレースでは、前年に引き続いての連続優勝を狙う伊藤光夫が、公式練習タイムでは1位。続いてブライアンズ(ホンダ)、アンダーソン(スズキ)、森下(スズキ)の順であった。いよいよ本レース開始、第1周の順位はアンダーソン、伊藤、アンシャイトで、アンダーソンとアンシャイトの差は9.2秒。2周目に入って伊藤のスピードが落ち、アンダーソン、アンシャイト、越野(スズキ)、伊藤の順となった。3周目に入るとブライアンズ(ホンダ)がものすごい追い込みを見せ、2位に上がって、アンダーソン(スズキ)、ブライアンズ(ホンダ)、森下(スズキ)、アンシャイト(クライドラー)、伊藤(スズキ)、谷口(ホンダ)の順でゴールインした。伊藤の2年連続優勝の夢は破れたが、アンダーソンの快走ぶりは見事で、スズキに2年連続の優勝をもたらした。マン島初出場ながらよく健闘した越野は、3周目に惜しくも転倒リタイアーした。最終の日本GPには、選手権が決定された後でもあり、出場を中止した。

 125ccクラスは、性能面では決して引けをとらない自信があったが、キャブレタートラブルに悩まされ、TTレースでも全車落伍という、惨めな結果となった。シーズン後半になって、東ドイツ、アルスターGPには優勝したものの、時すでに遅く、タイトルはホンダ4気筒に奪われてしまった。

 最終の日本GPには、新開発の水冷2気筒マシンを初登場させ、ホンダ4気筒との対決となった。レースはコースを20周、1周目からアンダーソンがトップを切って、そのまま優勝なるかと思われたが、15周目になってトラブルで落伍してしまった。代わって、スタートは悪かったが、じりじりと追い上げて来たデグナーが、15周目でトップに進出し、追いすがるタベリ(ホンダ)を退けて優勝した。デグナーは前年日本GPでの火傷で1年間欠場していたのだが、奇跡的なカムバックぶりであった。この日本GPからはアマチュア・ライダーの片山義美もスズキチームに加わり、初出場で3位に入賞して気を吐いた。

 250ccは、大馬力を誇りながら、水冷4気筒のため重量が大きく操縦性に難があり、マシンの安定性にも欠けるところがあって、フランスGPでの3位入賞が最高の成績という、期待外れの成績であった。250ccには、軽量クラスに専念したいというアンダーソンに代わって、オーストラリアのベテラン選手、J.アハーンが起用され、フランスGP、TTレース、オランダGPに出場した。

                              
                          
モーターショーでRT63レーサーをご覧になる皇太子殿下


(9)再び125ccのタイトル獲得(昭和40年)

 50ccクラスで、昭和37、38、39年の3回にわたりスズキとタイトルを争った西ドイツの名門クライドラーが、昭和40年から引退することになったので、この年はホンダ2気筒と、38年(1963)から開発が進められていたスズキ水冷2気筒RK65との間で激しい選手権争いが行われることになった。

 その結果は、アメリカ、スペイン、ベルギーの各レースではスズキ、西ドイツ、フランス、TTレース、オランダはホンダ、と優勝を分かち合ってメーカー選手権、個人選手権とも、最終の日本GPに持ち越された。TTレースでは、伊藤光夫が第1周を1位で走りながら、トラブルでリタイヤーを余儀なくされたのは、非常に惜しまれることであった。

 選手権をかけた 日本GPは、スズキの藤井敏雄、ホンダのタベリ、ブライアンズ、以上3人のトップ争いに始まったが、藤井は6周目に惜しくも転倒落伍した。レース後半になってそれまで鳴りを潜めていたアンダーソンが追い上げを見せ、ついに最終ラップにトップに立った。しかし、それもつかの間で転倒し、4年連続メーカー選手権の夢は消え去った。なお、この日本GPからは、元クライドラーのエース、アンシャイトがスズキチームに加わり、4位に入賞した。

 125ccは、前年の日本GPに初登場した水冷2気筒の性能を更に向上させて自信満々でレースに臨んだ。アメリカ、西ドイツ、スペイン、フランスの各レースに出場して圧倒的な4連勝を遂げ、TTレースを迎えた。公式練習では、デグナー、アンダーソン、リード(ヤマハ)、タベリ(ホンダ)の順で、スズキ有利の態勢であった。1周目中間地点では、アンダーソンが2位リードを10秒引き離してトップに立ち、独走かと思わせたが、その後プラグトラブルで交換のため10位に落ちてしまった。後は快走を続けて最高ラップタイムを記録したが、結果は第5位で終わった。50ccの伊藤同様、不運なレースというべきであった。

 しかし、後半戦に入って、東ドイツ、チェコ、アルスター、フィンランド、イタリアの各レースに連勝し、チェコGPで早くもメーカー選手権を決定した。個人選手権は、アンダーソンが昭和38年(1963)に続いて獲得した。最終の日本GPでは、新登場のホンダ5気筒との接戦になったが、アンダーソンが劇的な逆転勝ちを収めた。

 250ccクラスは、片山、ペリス、アハーンの陣容で前半戦に出場した。前年に比してマシンの安定性は改良され、TTレースでペリスが3位に入賞したが選手権を争うまでには至らず、この年を最後にレース界から姿を消すことになった。

(10)アンシャイト、50cc世界選手権獲得(昭和41年)

 50ccクラスで、前年失ったタイトルの奪還を目指して、性能を大幅に向上させた水冷2気筒RK66を出場させたが、ホンダ2気筒と接戦を演じた後、残念ながら再びホンダに選手権を譲った。 

 TTレースでは、序盤戦でアンダーソンが、タベリ、ブライアンズのホンダ勢を抑えていたが、エンジン不調となり優勝を逸し、このためタイトルを逸したのである。最終の日本GPは富士スピードウェーで開かれた。すでにタイトルを決定したホンダは参加せず、BSとの争いになった。このレースではスズキが1、2、3、4位を独占し、1位は片山で、日本GP初の日章旗が掲げられたのである。また個人選手権は新契約のアンシャイトの頭上に輝いたのが、せめてもの慰めであった。

 125ccクラスの選手権は、ホンダの5気筒、新進ヤマハの水冷2気筒、スズキの水冷2気筒の間で争われることになったが、スズキは進境の著しい片山の活躍にかかわらず、全レースを通じて優勝なしという不調に終わった。開発の進められていた水冷3気筒及び水冷4気筒の完成が遅れたことが、主な敗因であった。

(11)4度目の50ccクラス選手権の獲得(昭和42年)

 昭和41年(1966)のシーズンを最後に、アンダーソン、デグナー、ペリスが引退したので、昭和42年(1967)レースは、片山義美、アンシャイトに加えて、新加入のS.グラハムの3名を主軸とするチームでタイトルに挑戦した。

 50ccクラスは、ホンダが不参加のため、スペインのデルビを相手にすることになり、全勝を飾った。これで3年振り4度目のメーカー選手権を獲得し、個人選手権も、前年に引き続いてアンシャイトの手中に収められた。最終の日本GPではベテラン伊藤光夫が堂々優勝し、前年の片山に続いて日章旗を掲げた。

 125ccクラスは、大幅に性能を高めた水冷2気筒RT67U型で自信を持ってGPレースの開幕を迎え、新登場のヤマハ水冷4気筒とタイトルを争うことになったが、片山、グラハムの善戦があったにもかかわらず、西ドイツとフィンランドで優勝しただけで、タイトルはヤマハに奪われてしまった。TTレースではグラハムとリード(ヤマハ)の間で抜きつ抜かれつの大接戦が展開された末、わずか3.4秒の差で惜しくも2位になった。最終の日本GPでは、完成なった水冷4気筒RS67U型を初登場させ、自信満々として必勝を期したが、エース片山が練習中転倒負傷して出場できず、グラハムの健闘空しく、2位に甘んじた。

(12)GPレース界から引退(昭和43年)

 スズキはこれまでに輝かしい戦果を収め、スズキの名声を全世界に高めて、GPレース参加の初期の目的を達したので、この年(1968)からGPレース界から引退することを決定し、8年間続いた世界選手権の挑戦に終止符を打った。このためすでに開発されていた50cc水冷3気筒も、ついにGPレースに姿を現すチャンスを得なかった。

 しかし、50ccクラスは、前年度レーサーをアンシャイトに貸与して、個人出場でタイトルに挑戦することになった。アンシャイトは5戦中4レースに出場、優勝3回、2位1回という好成績を上げ、3年連続の個人選手権を獲得するとともに、メーカー選手権をスズキにもたらした。 

 これまで述べてきたように、前後8年間にわたって続けられたGPレースの参加は、スズキに何をもたらしたであろうか。

 まず、エンジンを一つの空気機械と考え、単位時間により多くの空気を吸い込み、そのうちのより多くの割合を燃焼させる方法(これが出力向上技術であるが)を始め、クランク室圧縮比の決定法及び排気管効果の技術を体得することができた。また、安定性・耐久性向上対策として、アルミシリンダーに鋳鉄スリーブ焼ばめあるいは溶着、さらに高速回転に耐えるニードルベアリングの開発など、レーサー開発で得た経験と技術は、そのままで、あるいはその考え方が直接商品に導入され、多大の成果を上げることができた。
 一方、それと同時に、世界GPレースでは圧倒的な強さを発揮したためか、モータースポーツとしての健全性に疑問を抱かせるような雰囲気が生じ始めたことも否定できず、この時期に名誉ある終止符を打ったことは、時宜を得たものであったということができる。


            
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