シリヤラインのHP:http:www.silja.com/
ヘルシンキ駅
フィンランドは湖の国
Stockholm〜Turku 間のフェリ−(現在の運行船)
ストックホルム
コペンハ−ゲン
Menu へ
(2)ヒッチハイクの看護学校生を乗せて

 ヨ−ロッパの若者たちはヒッチハイクが盛んだ。大きなボ−ドに行き先を書いて、車が通ると手を上げる。1963年だったと思う。フィンランドからの帰り、スエ−デンの街道で数人の若い女性を乗せたことがあった。こちらは片言の英語、彼女らの英語は流暢なものだった。スエ−デンの看護婦さんの卵たちだった。いろんなことを質問したが、一番印象に残っているのは「卒業して社会に出ると、初任給は12〜13万円(換算して)です。」ということだった。当時私は30歳を過ぎ、子供が二人あったが、20歳そこそこの看護婦さんの初任給の3分の1位だ。当時の日本はまだそんな貧乏国だった。
 私は、1962年は前半戦のスペイン〜西ドイツGPに参加し、後半戦に開催されたフィンランドGPには行かなかった。後半戦のGP参加メンバ−が、ストックホルムへ向かうスエ−デン街道で、小石?がフロントガラスに当たって、ガラスは全面真っ白になり、やむを得ずガラスに小穴を明け、防塵メガネを掛けて200km余運転して、やっとストックホルムにたどり着いたことは聞いていた。

 翌1963年、私は初めてフィンランドGPに参加することになり、運転する森下勲くんの横に座って、スエ−デン街道を走らせていた。昨年のガラス破損事故の話となり、森下くんが、「ガラスが割れたのは、この辺だったと思うよ」と言って間もなくだった。「ガガガ−」という音とともにエンジンが止まってしまった。コンロッドの大端メタルがイカレタらしい。昨年に続いて殆ど同じ場所で事故を起こすなんて・・・。ストックホルムまでは、まだ250kmもある。索引して行くしか方法はない。引っ張る車のドライバ−は伊藤光夫くん?、引っ張られる事故車のドライバ−は森下くんで横に私、最初は比較的ユックリしたスピ−ドだったが、慣れるにしたがい だんだんスピ−ドを上げ100kmだ。遅い車があると追い越して・・・追い越された車のドライバ−が驚いて、何回か助手席の私と目を合わしたことが記憶に残っている。

 何とか無事にストックホルムに到着し、アチコチ部品屋を当たってメタルを購入できた。修理してくれるガレ−ジがなかなか見つからなかったのか、メカニックの重野重雄さんが「オレに任しておけ」と言ったのか記憶にないが、メタルの交換は、重野さんが一人でやってのけてしまった。車の下に入り込み、オイルパンをはづし、コンロッドボルトをはづしてメタルを交換してしまったのだ。これには全く頭が下がった。私は重野さんの横に入り、作業する彼の手元を懐中電灯を照らす程度のお手伝いしか出来なかった。重野さんは、東京支店のサ−ビス課の所属だったが、以前四輪車の修理経験もあったとのことだ。1962〜1964年の間、メカニックの応援をお願いし、この間ずっとPerrisの専任メカニックを担当して貰った。こうして、予約してあったフェリ−の乗船に間に合い、フィンランドに渡ることができた。全く「魔のスエ−デン街道」だった。

 その後の1964・1965年は事故もなく過ぎ、1966年に私は再びフィンランドGP参加のため、この街道を走ることになった。2回の事故を起こした地点あたりを通る時には、「どうか何も起こりませんように!」と心の中で祈ったものだった。
(1)魔のスエ−デン街道

 最北の地で開催されるフィンランドGPには、スズキは1962年から1967年まで毎年参加した。1962〜1963年は、フィンランド南西端の Tempere、1964年以降は南東端の旧ソ連国境近くの Imatra で開催された。ベ−スキャンプは、1962年はパリ、1963年以降はオランダのアムステルダム郊外の田舎町 Badhoevedorp としていた。Badhoevedorp は、オランダの空の玄関口 スキポ−ル空港に近く、マシン・部品の受け取りに便利な場所だった。フィンランドへは、ベ−スキャンプ地より、デンマ−クのコペンハ−ゲンを経て、フェリ−でスエ−デンの Helsinborg に入り、北へ約500kmスエ−デンを縦断してストックホルムへ、この街道は空いていて、ところどころで湖が見え、私は好きな街道だった。そして、ストックホルムより夜行フェリ−で約300km、朝にフィンランドの南西端の Turku に到着という経路だった。Tempere は Turku の近くだったが、Imatra へは、helsinki を経由して、フィンランド南部を横断しなければならなかった。