e

                  藤井敏雄くんの甥御さん・お姉さんより

                               
                                 藤井敏雄くん

2003年6月25日、本ホ−ムペ−ジをご覧になった「藤井敏雄君の甥御さん」からメールをいただきました。

『はじめまして。私、◯◯◯◯と申します。突然のメール、失礼いたします。
実は、レーサーであった故藤井敏雄の甥にあたります。
私は現在32歳。叔父は、私の母の兄にあたり、私の生まれる前に亡くなっておりますので、お会いしたこともありませんが、その当時の時代背景とその人生観に尊敬の念を抱いております。
敏雄叔父さんの母(私のおばあさん)も健在であり、なにか今後、叔父にまつわることなどございましたら御一報いただければ幸いです。

                                          東京都調布市○○○○○○』

その後の何回かのメールのやりとりで次のような情報をいただきました。

@敏雄くんの墓所は「八王子市の高尾墓苑」にあるとのこと。

A敏雄くんの父上は、16年ほど前に亡くなりましたが、母上は現在85歳、お元気で東京板橋区にお住まい、日本、海外(ロンドン、サンディエゴ)に孫が9人、ひ孫が4人。本当に幸せに暮らしておられるそうです。ホ−ムペ−ジの敏雄くんの記事を話したところ、非常に驚き、涙を流していたそうです。

B敏雄くんのご兄弟について
お姉さんは、埼玉県朝霞市にお住まい。弟さんは、イギリスのロンドン郊外にお住まい。妹さん(メールをいただいた方のお母さん)は、東京練馬にお住まいとのこと。

Cメールを頂いた敏雄くんの甥御さんの自己紹介
私は、残念ながらあまりレースには興味はありません。テレビ等での放送など観ることがあるくらいです。一度だけ、車のル・マンを日本に呼ぶというイベント企画の仕事で、サーキット内 FM 放送の選曲で昔の富士スピードウェイに行き、実際のレースを観たことがあるくらいです。私は、現在、音楽関連の仕事に就き、個人的にも音楽制作活動をしております。そのような中で、叔父の生き方を歌詞にしてみてはどうかと思い、インターネットで検索をし、中野さんのホームページにめぐりあいました。


2003年8月7日、「敏雄くんのお姉さん」からお手紙を頂きました。

 藤井敏雄の姉◯◯◯◯と申します。埼玉県朝霞市に居住しております。この度、甥の□□□□より中野様のことを伺いました。、マン島では敏雄の事故死の際、色々とお世話をいただき、大変ありがとうございました。心より感謝申し上げます。
 37年前、私は次男を出産し、実家に帰っておりました。この際、ラジオで敏雄の事故死を聞いた知人より連絡が入り家中大騒ぎになった事が思い出されます。
 敏雄は、いつもレースのため、家にいることが少ない人でした。
 当時、我が家は6人家族で、長男敏雄、次女△△(練馬に居住)、次男◇◇(イギリス居住)の4人兄弟と両親でした。
 次男の◇◇は、兄敏雄の事故死した場所へ行って、手を合わせたいと一人でイギリスへ渡りました。
 父は昭和62年76歳で他界、母は現在85歳で、板橋に住んでおり、踊りを趣味にし、元気でおります。
 毎年お彼岸には、八王子高尾墓園にお参りに行っております。
 テレビなどでレースの画面などを見ますと、敏雄のことが思い出されます。私は幾度か鈴鹿などのレースを見に行ったこともありました。今37年前のことが話題になるなんて不思議でなりません。
 敏雄が健在の頃、中野様のお名前を聞いたことがあると、母が言っておりました。
 暑さ厳しき折、ご自愛の程、お祈り申しあげます。  かしこ。


2003年9月8日、敏雄くんの甥御さんがら次のお写真を送っていただきました。

 
8月26日、ご一族で「八王子市の高尾墓苑」にある敏雄くんの墓参りに行かれたときに写された写真です。
 敏雄くんのお母さんは85歳とのことですが、お元気な様子で何よりです。いつまでもご健康で・・・。
 敏雄くんのご冥福をお祈りいたします。
                           
                           
藤井敏雄くんのお墓とお母さん



「2004年マン島TT(http://tt2004.hp.infoseek.co.jp/)」に下記の様な記事が掲載されました


2004年6月9日・・・マウンテンコースを車で周る事になりました。メインスタンド〜ラムゼィのコーナーで藤井敏雄さんのお墓参り・・・亡くなられた場所は定かではありませんが 合掌・・・(http://tt2004.hp.infoseek.co.jp/04man4.htm)

往年の名ライダー宇野順一郎さんが2004年 Isle of Man TTの Lap of Honour に、トーハツ50ccで参加するため、ホ−ムペ−ジ開設者の黒田克祥さんと二人、マン島に行って参りました。その時の記事の一部です

黒田さんから、次のようなメールもいただきました。
鈴鹿かどこかで?藤井敏雄さんが宇野さんに、『マン島に行くんです』と話されたとか・・・その後友人から『藤井君はカワサキでマン島に行って亡くなったんだ』と聞いて絶句したそうです。・・・宇野さんがラムゼィのコーナーで地面を手で触り、神妙な顔つきでなにやら悲しげに見つめていたのが思い出されます。」

宇野順一郎さんは、1950年代から1960年代の前半のころ、クラブマンレースで活躍し、のちヤマハのワークスライダーとして契約もしていました。1961年の第4回クラブマンレースでは藤井敏雄くん、宇野順一郎さんともに大活躍しました。クラブマン50cc:藤井8位、クラブマン125cc;藤井1位・宇野R、クラブマン250cc宇野2位、日本選手権125cc藤井2位、日本選手権250cc宇野1位の成績でした。

また、黒田克祥さんは、元ホンダのワークスライダー谷口尚巳さん紹介のホ−ムペ−ジhttp://naomi-taniguchi.hp.infoseek.co.jp/ を開設しておられます。


以上の情報を藤井敏雄くんの甥御さんに連絡したところ、次のようなメールを戴きました。

貴重な情報をありがとうございます。親類に早速伝えます。
さて、私も昨年末結婚し、3月に横浜に移転。ようやく落ち着いた生活をしております。新婚旅行にイギリスの叔父(敏雄弟)のところに行ってきました。クリスマス・シーズンでしたのでロンドン以外は行かれませんでした。また、藤井敏雄の母も毎日元気にしております。(2004−06−30)



藤井敏雄くんについて


 藤井敏雄くんは、鈴木誠一・久保和夫の率いる名門「城北ライダ−ス」に所属して活躍していた。1961年の第4回全日本クラブマンレース(ジョンソン基地)での活躍はすばらしかった。

 1962年にスズキに入社し、メカニックとして、またマシン開発ライダ−として活躍した。1962年の全日本選手権レース、1963年の日本GP、1965年のベルギーGP、日本GPの50ccクラスに出場したが、1965年の日本GP50ccレ−スでは、序盤戦Taveri・BryansとTOP争いを演じたが、惜しくも転倒リタイアした活躍が記憶に残る。

 1965年日本GP後の11月スズキを退社し、
1966年の第2戦の西ドイツGPから新開発の「カワサキ125cc水冷2気筒マシン」でメカニックはなく単身で、GPを転戦していた。完走は一度もなく、苦しいレ−スのようではあったが、ヨ−ロッパの一人旅を結構楽しんでいるようだった。第8戦のTTレ−スの8月26日の公式練習中、Ramseyで塀に激突し死亡してしまった。カワサキからは大槻さん?という技術者の方が視察に見えていたが、遺体の日本への返送等の手続きをお手伝いするよう、渉外担当者に命じた記憶がある。日記帳の8月27日には「藤井敏雄の遺体返送の件で多忙」とだけ書かれてあるが、具体的に小生が何をお手伝いしたのかは覚えていない。事故後、衝突現場に花を捧げに行ったが、レ−スコ−スから大分離れ、どうしてこんな所に激突したんだろうとと思った記憶がある。9月1日50ccレ−スが終わり、その夜、夜行船便でマン島からリバプ−ルに向かったが、船上で暗いマン島を眺め、冥福を祈ったことが脳裏に残っている。


                                 Menu へ