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                 カワサキOBさんからの「藤井敏雄くんの思い出」

 カワサキのOB furuyaさんの思い出文(http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/8a687ff9d7c79c07988ad41cbf008117 のコメント欄)

【2007-02-01】

 1966年8月27日、FISCOでマシンテスト中に電話が入り、藤井敏雄君のマン島での事故死のニュースを聞きました。そこから直ぐ、三橋実君の弟さんの運転で、赤羽の藤井くんご自宅に報告に行きました。
 ご遺体が羽田に着いたのは9月1日、夕方の6時15分のことでした。その間、全てのことが、はじめての経験で、その日の日記に「遺体が着いてほっとした」との記述があります。「本当に着くのだろうか」と心配していました。
 マン島の視察に行っていた大槻幸雄さんが、英国側での手続きをやってくれたのですが、いろいろスズキさんにお世話になったようで有難う御座いました。
 昨年、片山義美君に会ったとき藤井君の話になり転倒後、話をしたとか言っていたと思います。
 この後、すぐにデグナーのFISCOでテスト中の事故(9月29日)があり、本当に心配でした。
 藤井君のついては、契約は担当しましたが、GP関係は技術部担当でしたので、どんな経緯でカワサキに来たのか詳しいことは解りません。
 はじめて藤井君に会ったのは、1965年秋のモータショーの会場で、久保和夫君が私に紹介してくれました。単に城北ライダースのメンバーとばかり思っておりました。
 その少し後、MFJの運営委員会の席上で、スズキの岡野武治さんから「うちの藤井から辞表が出た。会社の従業員ライダーだから、引き抜きは困る。」という発言がありましたが、「うちは関係ない」「多分BSだろう」と思っていたのですが、ひょっとするとそのころ既に話があったのかも知れません。
1966年1月5日に藤井君が明石に来て終日契約の話をしています。
 非常に真面目な人柄だと言う印象を強く受けました。カワサキとの契約は、「ライダーとしての契約は、マン島から帰ってからにして欲しい」という、ご本人の強い希望でマシンの貸与契約とGPマシンの技術改良に関する内容でした。
 その後、量産車のキャブセッテングで困っていた時、藤井君が診て即座に直ったことがあり、契約外のことでしたが、事業部長から金一封が出たりしました。技術的な経験豊富という印象を受けました。
 私にとって、藤井君は辛い思い出です。中野さんとの接点が出来て、藤井君のことを書く気持ちになりました。心よりご冥福をお祈りします。


カワサキのOB 大槻幸雄さんの思い出文(http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/173b4e301f78cc7cd94128f8cbe440b2 のコメント欄)

【2007-02-05 】

・・・・藤井君がマン島で事故死されたが、転倒後病院にに駆けつけ、医者に聞いたところ、彼は元気でピンピンしているとのことで、安心したホテルに帰って食事をとり、病院に出掛けようと思っていたら、「Sorry, He was killed]と言われ愕然とした。後に分かったのであるがヘルメットが割れていて、デグナーの経験から脳内出血と分かり、適切な手術が行われていたら救えたのではないかと痛感する。有名なマン島の医者でも誠に頼りないと、憤りとともに痛感する。

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