「絶対の自信を持てる生産態勢も完備した今、まさに好機到る! 明年こそはT・Tレースに出場せんとの決意をここに固めたのである」。本田宗一郎が『マン島TTレース出場宣言』を社内に向けて発表したのは1954年3月20日であった。
 この宣言は、未だ1度も日本車が挑戦したことのない、世界最高峰のレース「マン島TTレース」への参戦表明であり、宗一郎のレースへの熱き思い、そして世界一になるんだという気概にあふれる檄文である。「私の幼き頃よりの夢は、自分で制作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった」と文中にあるように、宗一郎のレースへの思いは年少の頃から強かった。見習い時代からレーシングカーの製造に熱中し、自ら運転したレースで優勝したこともあった。レースで大怪我を負ったり、若い社員と一緒にレースをしたりと、宗一郎はドライビングテクニックと、製造した車の性能の両方を試せるレースを非常に楽しんでいた。
 そんな彼が初めて海外レースに挑戦したのが、マン島宣言を発表する2ヶ月前に出場した「サンパウロ市建設400周年記念国際ロードレース」である。このレースが「マン島TTレース」への挑戦の契機、ひいてはホンダの海外レース参戦の歴史の序章となる。宣言の中の一文に、このようなくだりがある。「今回サンパウロ市に於ける国際オートレースの帰朝報告により、欧米諸国の実情をつぶさに知る事ができた。私はかなり実情に拘泥せずに世界を見つめていたつもりではあるが、やはり日本の現状に心をとらわれすぎていた事に気がついた……」。ひょんなことから参加したこのレース。延々6日間かけたどり着いたブラジルでは、完走を成し遂げるもトップから1周半遅れ、出走25台中13位と惨敗する。
 
「サンパウロ市建設400周年記念国際ロードレース」で13位完走を果たした大村美樹雄(#136)
   世界のレベルを目の当たりにしながら、宣言はこう続ける。「然し逆に、私年来の着想をもってすれば必ず勝てるという自信が昂然と湧き起り、持前の寸志がこのままでは許さなくなった……」。ホンダはこれまでも、戦後復活し始めた国内のレースに積極的に参戦していたが、この闘いに飽き足らず、宗一郎の目は世界へ向くこととなる。彼がよく口にした「世界一でなければ日本一ではないんだ」という言葉通りの決意であった。
   
 
 
 「マン島TTレース出場宣言」が発表された1954年(昭和29年)は、ビキニ環礁で米国による水爆実験が行われた年。同時にゴジラが生まれた年でもある。街頭テレビがブームとなり、冷蔵庫、テレビ、洗濯機が「3種の神器」と呼ばれたのもこの頃だ。前年には朝鮮戦争の休戦協定が結ばれ、特需景気から一転、大不況を迎えていたが、翌年の後半に好転し「神武景気」につながる。
 メーカーとして基盤固めの時期を過ぎ、世界を視野に収めつつあったこの頃、ホンダは未曾有の経営危機を迎えている。主力級の旧型車の販売が頭打ちになり、続いて発売されたベンリイ号J型や4E型、1954年1月発売のホンダ初のスクーター、ジュノオKに相次いでトラブルが発生したためだ。時期的には“宣言”が発表された直後のことであり、参戦計画の遅延を余儀なくされている。
 また、当時の日本と海外との隔たりは、地理的なもの以上に大きい。海外旅行は自由化されておらず、一般の海外渡航は制限されていた。外貨の持ち出しも厳しく、ひとり当たり500ドル(=約18万円、為替レートは1ドル360円)が上限となっており遠征先での活動資金のやりくりにもひと苦労あったという。
データで見る1954年
●総人口 約8823万9000人
●大卒初任給 8700円
●政治 吉田茂内閣総辞職〜第1次鳩山内閣成立
●文化 映画「七人の侍」「二十四の瞳」
歌謡曲「お富さん」
●流行語 「空手チョップ」「死の灰」
「シャネルの5番」
 
1954年2月、新宿駅東口に登場したマーケット「龍宮マート」
ホンダが満を持して発売したジュノオK。当時としては画期的なFRP製ボディを採用している
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  宣言文
  マン島TTレースとは

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