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         1981年「講談社」発行  「われらがスズキ・モーターサイクル」より


         RE5 悲話 「あの、石油ショツクさえなかったら・・・・」

 1970年、スズキは西独NSUバンケル社からロータリー・エンジン(RE)の技術導入を図ることにし、11月24日、両社間でMC用に20〜60psのREを開発することで合意、調印した。国産初のRE4輪車は東洋工業の手ですでに1967年発表され、1970年6月からはファミリアRE・クーペの対米輸出が開始されていた。プライドの高い遠州人気質の”スズキ”は自社独自の技術開発を前提にREに取り組みはじめた。

 神谷重安課長、白鷺貞夫、櫛谷清、中村英夫係長らスズキRE開発スタッフの一年聞は西独と浜松の往復に費やされた。二〜三週間、西独NSU社に行ってはREの基本技術、生産技術のノウハウを学び、本社技術センター北側の動力計室にすえつけたバンケルのRE、KKM612(ツインプラグ)、503(シングルプラグ)を運転しては基礎データを取り、疑問、難問に突き当たっては再び西独へと飛んでいった。

                   
                      中央が神谷重安課長、その右が櫛谷清係長

 「バンケルに行って、はじめて英会話(独会話じゃなく)を覚えましたよ」と笑いながら、白鷺がいった。細かな、技術的な話になると、通訳を介した場合どうしても双方の理解度にギャップが生ずることを知った彼らは、まず言葉の壁を克服することからはじめた。バンケルの技術スタッフも神谷・白鷺らの努力に積極的に応え、彼らにとっても外国語の英語で技術的なアドバイスをしてくれた。
「とにかくむずかしいエンジンでしたね。両目を大きく開けていても、ついていくのがやっと。2サイクル、4サイクルなんかの比じゃなかったですよ」遠くなつかしむように頬笑みながら、白鷺は語る。

 MC用RE開発に着手して、足ばやに二年半が過ぎた。梅雨あけのある日、動力計室に開発スタッフが神妙な面持ちで、勢ぞろいした。技術センターを吹きぬける、遠州灘からの風が熱い夏を予感させていた。彼らの目の前に、完成したばかりの試作第一号REがセットされ、じつとテスト開始を待っている。ラジエターにお神酒がほんの少々注がれ、スタッフが次々に玉串を捧げてはかしわ手を打った。全員が息をころして、エンジンのスタートの一瞬を待った。(うまくまわってくれよ、たのむ!) スタッフは祈った。
 スターター・スイッチがおされた。試作第一号REは、一発で軽やかにまわった。ほとんど振動もない。「まわった! まわった!!」 開発スタッフ全員が思わずとび上がってよろこんだ。(ようし。そのまま、ずっとまわれ、まわれ!)スタッフは、2サイクルと4サイクルとの中間域のREの排気音に耳をすませながら、そう心で叫んだ。

 耐久テスト10時間後、試作第一号REは分解され、細部に渡って厳しくチェックされた。やはり、REのネックといわれていたチャター・マーク(波状摩耗・ひっかき傷)がハウジング内壁にくっきりと残っていた。開発スタッフらは、直ちにハウジング内壁やアベックス・シールの改良に取りかかった。およそ8カ月、動力計室のベンチテストだけでも20台の試作エンジンをこわすといった″トライ・アンド・エラー″の末、やっとチャター・マークは消えた。

 1972年秋のモーターショーに「ヤマハロータリーRZ201」が参考出品(のちに開発中止)されたが、スズキのRE開発スタッフは″走らないもの″などに目もくれず、生産試作に向かって努力を重ねていった。

 軽量と思われていたREがMCにとっては予想外に重いことがわかり、車体の剛性強化を図り、サイドハウジング等使用できる個所にできる限りのアルミ合金を使い軽量化を図った。また、RE開発は、アフター・バーニングでマフラーがまっ赤にやけたり、ハウジングの一カ所だけが異常に高温になるなど、″熱″との戦いでもあった。ローターは油冷、ハウジングは水冷、そして排気はラムエア・システムの二本ふり分けの二重マフラーにするなど、効率のよい冷却システムで、この問題を解決した。

 1973年夏、秋のモーターショーの発表を前に量産試作車が完成し、谷田部のテストコースで走行テストが行われた。高速走行時でも、バックミラーが少しもぶれない程の振動の少なさや操安性のよさに、開発スタッフは改めて驚かされた。それに、走地燃費は水冷2サイクルの750車よりも20パーセントいい数値(しかしどうしても4サイクルに劣る)を出した。同年秋のモーターショーは、シングルローター式バンケルRE搭載、ジユジアーロ・デザインの”スズキRE5″(497cc、最大出力62psの話題でもちきりとなつた。

 その後、海外を含め延べ50万キロに及ぶ実走行テスト(15、16台走った)を終えて、1975年1月、スズキは「RE5」の量産態勢に入った。しかし、排気量の問題が解決されず、ついに国内販売を断念、輸出のみにしぼらざるを得なかった。

 RE5の海外での評価はすこぶる高く、”さあ、ロータリー時代の幕開けだ!”とさえ思われたのだが・・。 1973年10月、第4次中東戦争が勃発。中東産油国が石油戦略を発動し、世界的に”石油ショック”が起こつた。

 翌1974年3月、日本国内は石油製品の大幅値上げから、省エネが叫ばれ、1975年9月にも、再び産油国は原油価格の大幅値上げを通告、世界を揺さぶった。

「あの、石油ショックさえなかったらね・・・。ある程度の予測はしてましたが、やっぱり、そうと決まった時はね・・・」 白鷺がさびしそうに頬笑んだ。 1977年スズキは、発売2年目にして「RE5」の生産中止を決定。自分の全精力を傾注して開発した「RE5」の中止を知らされた白鷺の中に残ったものは″空虚″と″RE5のエキゾースト・ノート″だけだった。彼は帰宅すると、そのまま自室にこもって一人で酒を飲みながら、遠く、美しかったバンケルの故郷シユツットガルトの夕陽を思い浮べていた。

 RE5は生産中止されたものの、この開発で得た技術はその後のスズキ車に数多く利用された。例えば、グリスシール封入式のエンドレス・ドライブ・チェーン、大型車の操安性にかかすことのできないダブル・クレードル・フレームなどだ。


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