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                       二輪4サイクルグループ発足まで

 1959年の第3回浅間火山レースから、ずっとレースを担当してきたが、1967年10月の日本GPを最後に新しい業務を命じられた。そして、1968年2月には、1960年来続けてきた世界選手権レ−ス(WGP)からの撤退が決定された。
 新しく命じられた業務とは、軽自動車用の4サイクルエンジンの開発研究であった。メンバーは、私以外に設計担当・実験担当それぞれ2名であった。今の若い人々には信じられないかも知れないが、スズキは創業以来、二輪・四輪車ともに2サイクルエンジンしか生産しておらず(本ページ最後に記載の【】をご覧下さい)、4サイクルエンジンの経験は全くなかった。このため、当然ながら4サイクルエンジンの技術ノウハウは皆無であった。

 当時、軽自動車のエンジン容積は360ccであった。1967年春、スズキは、2サイクル空冷3気筒のエンジンを搭載した「フロンテLC10(RR方式)」を発売、ホンダは、4サイクル空冷2気筒エンジンを搭載した「ホンダN360(FF方式)」を発売し、両車とも爆発的な人気で、販売台数をのばしていた。最初は軽トラック用のエンジンとして、水平対向の空冷2気筒エンジンの開発に着手したが、まもなく、軽乗用車フロンテLC10用に搭載の4サイクルエンジンを開発することになった。 エンジン形式は「ホンダN360」と同じ空冷2気筒OHCエンジンとし、RR方式である。当時スズキは、コンピューターは導入したばかりで、むずかしい技術計算までは手がつけられていない時代だった。動弁系については、いろいろ文献を読みあさり、電算機部の協力も得ながら、プログラムを作ろうと努力したが、満足なモノは出来ず、大きく拡大しての作図でもってカムのプロフィルを作成もした。結局は、「ホンダN360」の動弁系の基本寸法をスケッチして、この寸法を使うことにより、「N360」のカムが使用出来る設計にした。性能面では、そんなに苦労もなく 「N360」と同等のエンジンが完成した。当時、自動車の排気ガスによる環境問題が取り上げられ始めており、2サイクルエンジンでの種々方式の対策研究が進められていた。そして、私たちの作った4サイクルエンジンでの排気ガス対策研究もこれに加わることになった。排気ガス対策研究での先進国アメリカでは、多くの研究結果・文献が発表されており、随分勉強になったものである。振り返ってみると、40年の技術屋生活の中で、一番勉強したのは、この時期だったではないかと思う。排気ポートへのエアーインジェクション方式を採用して、4サイクルエンジンなら問題なくイケルと上層部へも報告したが、2サイクルエンジンでの対策方式「EPIC (Exaust Port Ignition Cleaner の略)」で進めると決定され、技術者として非常に無念な悔しい思いをし、4サイクルエンジンを捨ててスズキの将来は大丈夫だろうかと危惧したことが強く記憶に残っている。こうして、1970年6月9日、約2年半担当した4サイクルエンジン開発グループは解散となり、私は四輪エンジン設計部の商用エンジン担当に転出し、ライトバン・トラック・ジムニーのエンジンを担当することになった。このような経緯で、スズキ四輪車の排気ガス対策は、2サイクルエンジン一本に絞られることになった。この「EPIC」エンジンは1972年秋、1973年秋のモーターショウに大々的に発表されたが、結局はモノにならず、2サイクルエンジンでは排気ガス規制をクリアすることが出来ず、1976年12月には、「ダイハツから4サイクルエンジンを購入」という、エンジンメーカーとして、これとない屈辱を味わうことになるのであった。

 この頃、排気ガス対策として、NSUのロータリーエンジンが世界的に注目を集め、スズキも1970年11月24日ロータリーエンジンの技術導入契約を行い、二輪車用ロータリーエンジンの開発を開始した。(これは4年後の1974年11月1日「RE-5」として輸出を開始することになる)。翌1971年に、東京研究所が設立(現在の研究所と場所は異なり、国道16号と246号の交差点のすぐそばに設立)され、1971年8月、私は「小型汎用ロータリーエンジン」の開発担当として、東京に転勤することになり、67cc、93ccという小排気量の強制空冷ロータリーエンジンの開発を担当することになった。東京に転居することは喜ばしいことではなかったが、ロータリーエンジンという未知のモノに挑戦することには非常な興味が湧いたものであった。

 この「小型ロータリーエンジン」の開発を担当し2年余が経ち、開発が終盤にさしかかった1973年11月8日のことだった。浜松本社に出張した帰り、本社近くの路上でレース担当時代の上司、当時二輪設計部長の清水正尚さんに出会い、双方車を降りての立ち話となった。「二輪車ユーザーの4サイクル志向が進んでいること、アメリカが1976年モデルから排ガス規制を実施することに決まったこと、これらの理由でスズキも4サイクル二輪車の開発を急ぐ必要が出てきた。4サイクルエンジンの経験者は、中野くんしかいないのだから頼む」というのが清水さんからの話の要約だった。

 これからが大変だった。11月17日には、人事について社長の了解を得たとのことだったが、東京研究所長(研究所設立にあたって社外から迎えた方)がなかなか首を縦に振らず、2ヶ月余が過ぎた。そして、1974年2月1日には、「4サイクルプロジェクト」が正式に発足したが、プロジェクト長である私の名前はなく、設計担当の桐生・太田、実験担当の藤井・滝本・鈴木一の5名での発足だった。太田くんは、軽四用の4サイクルエンジンの開発を一緒にやった経験者だが、他は全く4サイクルエンジンは未経験者だった。その後、やっと所長が私の週2日程度の本社勤務を認め、浜松本社・東京研究所を往復する「二足の草鞋」の勤務となった。2月5・6日には、弁天島のスズキ荘で、二輪設計部・商品企画部・USスズキに私も加わって「4サイクル二輪車の長期商品計画会議」を開いた。そして、東京研究所での私の後任者も決まり、3月21日にやっと私の「4サイクルプロジェクト」への辞令が出た。後任者への業務引継が終わり、やっと浜松本社に出社出来たのは、4月2日からだった。

 かくして、スズキ4サイクル二輪車の開発が本格スタートすることになったが、軽四輪車の方は2サイクルエンジンでの排ガス対策方式「EPIC」を推し進めており、4サイクルエンジンの開発は、まだスタートしていなかった。
 ちなみに、1954年秋に赤トンボのYATでスタートしたヤマハも2サイクル専業メーカーであったが、1970年に初の4サイクル「650XS1」、1972年には「TX750」、1973年には「TX500」を発売していた。また、カワサキも、メグロから継承した「650W1」は別として、1972年にアメリカで爆発的人気の「900Z1」、1973年には国内向けに、「900Z1」をスケールダウンした「750RS」を発売していた。スズキは二輪車メーカーの中で4サイクルの最後発メーカーであった。


】スズキでも、昭和29年(1954年)に、4サイクルのコレダCO型(90cc)を発売したことがあったが、参考になるとは考えられず、図面・資料は探してもみなかった。

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