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このペ−ジは、kamesanさんが、以前開設していた「Grand Prix Forum」
http://www.coara.or.jp/~tortoise/gpxtop.htmlより引用して掲載させていただきました。
<ホンダRC143>
<スズキRT60>
雨の中のレースで、車重80kgのRBはRC142に食い下がるレースを見せたものの、5位入賞(完走1台)が最高位であっ た。

惨敗である・・・、だが、レース中RBを駆る伊藤光夫がRC142の谷口選手に追いすがり、ホームストレッチで抜き去った時の速さから、RBの実力を見ぬいた本田宗一郎氏は、「欧州で走らせてみるべきだ」と語った。そしてこの一言からスズキにマン島参戦を決めさせたという。

 1960年のマン島は、前年度から引き続きホンダは125ccに加えて250ccクラスにも参戦、初挑戦のスズキは前年のRBに新設計の2ストローク・ツインのRT60を持ち込んだ、RTはわずか4ヶ月という短期間に開発されたマシンであり、最高時速も160km/hには及ばなかったが、80lgいう軽いマシンだった。


 ホンダは、日本製マシンは日本人ライダーの手で・・・の考えを貫いて日本人ライダーを揃えての参戦となったが、T・フィリス、B・ブラウンが「ホンダに乗りたい」との申し出があったことから、彼らにRCを与えた。
 
一方のスズキは日本人ライダー3名でマン島に乗り込んだものの、期待の伊藤光夫選手が練習初日に転倒負傷、急遽チーム入りしたR・フェイも翌日に転倒、波瀾の幕開けとなったが、何とか3台のマシンをスターティンググリッドに送ることができた。

 マン島TTの125ccは、常勝のMVアグスタ打倒が各メーカーの目標であった、このクラスでは名手、E・デグナーを擁するMZ(東独)が最短距離にいたが、そのデグナーが練習走行中に転倒、欠場してしまう。
 レースの結果は常勝、MVアグスタが優勝し、3位までを独占、MZが4・5位、ホンダの最高位は6位に谷口尚己、以下10位のT・フィリスまでRC143が続けて入った、
スズキは松本聡男の15位が最高、伊藤光夫に代わったR・フェイは18位だった。

 
スズキにとっては上位進出こそならなかったが、この結果は将来に希望を持たせた。

 250ccクラス、ホンダは4気筒RC160を登場させた。このマシンの前評判は高く、注目を集めた。
 レースは上位陣が続々脱落し、MV・MZ・モリーニ、そしてホンダの争いとなった、結果はMVのホッキングが優勝、ホンダのR・ブラウンが4位、5位にこのレース最年少(19歳)の北野元が入り、6位までホンダ4気筒が飛びこんだ。

 この年、世界選手権に参戦したホンダは、250ccシリーズランキングでJ・レッドマンが4位と健闘した、上位3台はMVアグスタである。

 この活躍の陰に、フィリスやブラウンの適切な助言があった、特にブラウンは日本人選手に自分の走法を教えるなどによって信頼を集めた、そして常々「周回遅れに注意しろ」と、語っていたが、ドイツGP練習中、まさに周回遅れのライダーと接触転倒して死亡したことは皮肉であった。
 このことはホンダ陣営を深く悲しませることになった。
 だが、その4年後、技術研鑚としてのレース参加の必要性を感じ、1959年の浅間火山レースに2ストロークの「RB(125cc)」を完成させた、最高出力10ps/9000rpmだったと言う。
 しかし、この年のヤマハファクトリーは不参加であり、前回の雪辱を晴らすに至らなかったが、この時参戦した5台のRBは、マン島帰りのホンダRC142・ベンリイ・トーハツのファクトリーマシンなどが相手となった。
スズキは1955年の浅間で、すでに富士登山レースで好成績を上げてきたコレダSTをベースにしたレーサーを送りこんだ・・・が、しかし、レースはヤマハが全力を注ぎ込んできたYA1に上位を持ち去られ、YA-1が1〜4位、コレダが5〜7位にとどまったことで「今後レースに参戦しない」ことを表明した、このことに関しては「ヤマハに負けたから・・・」の声もあったが、スズキは釈明をすることもなく、「実用車メーカーなのでこれの生産に全力を注ぐ」のコメントを崩さなかった。
<マン島に登場したスズキチーム>
 ― Chapter 4 ―
スズキの挑戦:1960

1959年6月3日、決勝はMVアグスタ・ドゥカティ・MZ(東独)といった強豪とグリッドを並んだ、レースはL・タベリのMZ、ドゥカティのM・ヘイルウッド、プロビー二のMVアグスタの争いとなり、序盤のRC141は10位以内に入ることもなかったが、中盤に上位者の脱落が続く中でチャンスを迎えて徐々に追い上げる結果となったが、結局レースはMVアグスタのプロビーニが優勝、タベリが2位、ヘイルウッドが3位・・・ホンダ勢は6〜8位(6位:谷口尚己、7位鈴木義一、8位田中貞助・・・鈴木淳三が11位)となり、5台中3台が入賞する結果となった、この初挑戦で3台も入賞できたことは、予想外の出来事だったと思う。
 同時にこの出来事は、日本車の技術的水準の高さを証明することとなった、英国のメディアは「最も遠い国からきたホンダ」を賞賛した。
 ホンダはこの活躍でチーム賞を獲得した。
 
 ホンダはマン島参戦を喧伝して5年、実績を伴っての実現だった。

 その後、ホンダは浅間火山レースに凱旋したが、マン島向きのセッティングは浅間のダートコースで実力を発揮できず、ベンリイSSの北野元に僅差でかなわなかった。
 その後、ホンダファクトリーは世界初の250cc並列4気筒のRC160をデビューさせた。第3回の浅間火山レースでの事である、ここでRC160の島崎貞夫が優勝し、2・3位もRC160と表彰台を独占した。
 この時RC160は14000rpmで最高出力35psを発生した、翌60年のマン島参戦での資質は推して知るべし・・・であった。
そして、外国メーカーは、彼らが持ち込んだRC141のパワーが18psを13000rpmで発生させることを聞き、驚きを隠せなかった、それは当時、10000rpmを越す回転は常識を超えていたのである。

 この時から、すでに「高回転・ハイパワー」のホンダ車の範となるべきものはできていたのだろうか。
このRC141は、最高時速160km/hにも届こうとしていたが、しかし、MVのパワー・最高速は更に上にあった。その為、日本のホンダ本社は研究所に残っていたエンジンを徹夜でチューンし、4バルブ化したヘッドを持って(手荷物で!!)マン島に送られた(RC142)。
ホンダは大量のスペアパーツや練習用のマシンを用意し、「ここにはパーツ・工具、メカニックさえ売るほど用意されている」と言わしめたほど大規模の構成でマン島に乗り込んだ
 1959年6月、ついにホンダは念願のマン島へ新設計のRC141(125cc)5台を送りこんだ。
 4人の日本人ライダーと、案内人として浅間レースで日本に馴染み深かったビル・ハントにRC141が与えられた。

 この時期の125ccクラスは、ほぼMVアグスタの独壇場だった。この事は、58〜59年にNSU・モンディアルといった有力メーカーが撤退していたことも手伝ってのこともあったのだが・・・。
<RC141>
    ― Chapter 3 ―
ホンダのマン島TT初挑戦:1959
VOL・2

 だが、メーカーの中でもホンダは、速くも海外に目を向けていた・・・・・、1954年3月・本田宗一郎氏は「わが本田技研創立以来5年余、・・・(中略)・・・好機至る!明年こそはTTレース(マン島)に出場せんとの決意をここに固めたのである!・・・(略)。」との檄文を全社員・販売関係者に発した。
 しかし、このころのホンダは「ジュノオ」の失敗、「カブ」(このころのカブは補助エンジンのこと)の需要減、さらに資本金の20倍以上に及ぶ設備投資によって、創立以来の一大危機の中にあったが、そのような状況の中で実際にマン島TTに行った本田氏は、彼我の技術差を痛感する。
 同じ排気量でも欧州のレーサーはホンダの2倍以上の馬力を出し、部品の品質・精度一つをとっても、国産車を数倍上回っていたのである。
 帰国した本田氏はレーサーの研究専門の課を新設し、各国のオートバイを研究、59年のマン島挑戦に向けての開発が始まった・・・。
1957年第2回浅間火山レ−ス
 そのころ、日本では戦後の復興期であり、この時代の2輪車はミニマムトランスポーターとしての125cc以下の実用車が主であった。今のようにスポーツライディングやツーリングを楽しもうという人たちはこぞって外国製オートバイを求めた。
外国製のオートバイは性能・品質・デザイン・・・どれをとっても国産車をはるかに上回っていた、この時250cc以上の国産車は数車に過ぎなかった。
戦後の物資不足、ということにしても国産車の耐久性の低下に影響した、作れば売れる時代だった・・・と、いうこともあるのかもしれない。
 
 この国産車の性能・品質の状況を憂い、「このままでは外国製オートバイの前に屈することになる」と、各2輪メーカー・通産省は「長距離を、いかに速く・確実に」性能を向上させなくてはならない・・・と、マン島TTを範として、1953年3月、名古屋から145.5マイルを走破する「
名古屋TTレース」を開催するに至った。
これが、日本における戦後最初のレースとなった。
 なぜ名古屋?というのは、この当時の2輪メーカーの3割以上は名古屋を中心とした中京地域で製造していたためといわれている。

 この時の名古屋TTのレギュレーションの特徴は、排気量が150ccに制限されたこと、それはます実用車の中心であったこの排気量から、外国車を上回る性能を求めようという事からだろう。

 この「名古屋TT」、初回は大盛況であり、今後の国産2輪車の技術促進の場として続いていくものと思われたが、その後2度と開催されることはなかった。
それは実用車の耐久テストには、一般公道上での長距離走行が必要と熱望する各メーカー・関係者の要望は、「公道の使用は望ましくない」との行政の非協力によって阻まれることになったからである。

 名古屋TTの後の国内メーカーの研鑚の場として、1953〜1956年の
富士登山レース、そしてあの浅間高原レースが1955年11月に初開催された.

「浅間高原レース」はその後1959年まで開催された、この浅間でのレースで国産車の急速なレベルアップが実現し、世界への飛躍の舞台となったことで非常に重要な役割を果たしたといえる。
 
第一回の浅間高原レースは名古屋TTと同じく一般公道上で開催された、北軽井沢をスタート・ゴールとした一周40kmは長野県の協力が得られなかったために全体が群馬県側の19.2kmで開催された。このレースでは将来輸出に耐える性能・耐久性をもつものに・・・という事から、ネジの一本に至るまで国産品とすることが義務付けられた事が特徴である。
 この時のレースで、主催者側の予想以上に平均速度が速かったことから、公道を使ってのレースに見切りをつけ、当時群馬県所有の遊休地・浅間牧場に通産省からの300万円の補助金と19メーカーから出資を求めて専用のクローズド・コースを建設した。
 世に言う「
浅間火山レース」の発祥である・・・。

浅間火山レースは隔年で開催された、それはマシンの開発には莫大な費用と時間がかかるということから、各メーカーの申し合わせによるものだった。
― Chapter 2 ―
日本メーカーの黎明期

第2次大戦戦後のロードレース世界選手権(世界GP)の記念すべき第一戦は、1949年6月17日イギリス・マン島(マン島TT)にて開催された。
元々マン島で開催されることになった起源は、イギリスのプライベートチームが規制の緩和されているマン島に目をつけ、そこで走行練習をしていたことに由来されているといわれている。
 
 以後、70年代中盤まで、マン島TTは4輪F-1のモナコGPの如く、由緒あるWGPの一戦として親しまれるようになる。
 
 開催初年度、この年のチャンピオンシップは全6戦で争われ、125cc・250cc・350cc・500cc・サイドカーといったクラス分けで行われた。
初代の最高峰・500ccクラスチャンピオンはAJSに乗るL・グラハムが獲得した(因みに125ccはモンディアルのN・パガーニ、250ccはB・ルッフォ(グッツイ)、350ccF・フィリス(ヴェロセッティ)、サイドカーE・オリバー(ノートン)が獲得した)。
― Chapter 1 ―
世界グランプリの発祥

フィル・リード(MV) MV最後のチャンピオン
ジャコモ・アゴスチーニ(MV)
フィンランド・イマトラ市公道
VOL・1