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    1989年三樹書房発行の『グランプリレース 栄光を求めて 1959〜1967』から

                TTレースの歴史


 TTレースは・モーターサイクルのオリンピックといわれ,長い歴史を持つもっとも代表的なロード・レースである.

 第1回のTTレース(Tourist Trophy Race,ツーリスト・トロフィー・レースの略)は1907年におこなわれたが,この時のクラス区分は排気量によるものではなく,シングル,ツインのエンジン機構によってわけられ,この2クラスのレースがおこなわれた.参加車は25台,いずれもエンジン出力プラス人力という原始的なペダル付きのものばかりであったが,それでも完走したものは11台であった.

 このレースにおける優勝者は,シングル・クラスが431.1cc単気筒J.A.P.エンジンのマチレスで出走したチャールズ・コリアーで,平均時速61.49km.ツイン・クラスほプジョーの直列X型2気筒671.4ccエンジンを搭載するノートンに乗ったレム・フォウラーの58.27km/hであった.

 翌1908年におこなわれた第2回TTレースでは,オートバイレースとしての水準を高めるためペダル付きオートバイの出場は禁止されたが,それ以外の点ではレース規定もコースも大きな変化はなく,トライアンフのジャック・マーシャルが平均時速65.14kmでシソグル・クラスに優勝し,ドットに乗ったハリー・リードが62.09km/hでツイン・クラスに優勝,開催2年目にしてはやくも記録の大巾な向上をみた.

 1909年の第3回TTレースからは,ツイン・クラス排気量を750ccまで引き上げ,いままでのように気筒数によってレースを分けずに行われた.この時の優勝者は第1回シングルの勝者コリアーであった.

 1910年の第4回TTレースでは.すでに過去3年間の技術的進歩の大きさをはっきり感じさせるような記録が出された.チャールズ・コリアーのマチレスが,平均時速81.46kmの新記録で優勝したのである.これは1921年におこなわれた第15回TTレースまで12年阻も破られぬ大記録であった.

 1911年の第5回TTレースから,新たに排気量によるセニア・クラス,ジュニア・クラスの2つの区分にわけられた.またコースもかわり,現在のマウンテン・コースの原形がこの年にできあがり,レースの興味は増大した.

 1912年の第6回TTレースでは,年ごとに向上する参加車の性能とともにレースの水準もかなり高度なものとなったため,シングル,ツインのハンデをとり,セニア・クラスが500cc,ジュニア・クラスが350ccという排気量によるクラス区分ができあがった.

 翌1913年のレースではコースは延長され,第1次世界大戦の始まった1913年の第8回TTレースではセイム・ウッドがセニア・クラスで86.08km/hという最高ラップ新記録を樹立したが,平均速度では1910年にチャールズ・コリアーのマークした81.46km/hを破るものがなく,記録は平板であった.

 第1次世界大戦による混乱がおさまると,1920年には早速第9回TTレースがおこなわれた.コースは1周約61kmのマウンテン・コースであったが,新たに250ccのライト・クラスもおこなわれるようになり,だんだんとバラエティが出てきた.

第1次大戦後,急速に伸びた記録

 参加車は第1次大戦の空白時代にも技術的にかなり向上しており,性能も高まっていたため.その記録はセニア・クラスでサンビームに乗ったトミー・デ・ラ・へイが82.83kmという平均時速をマークし,ここに戦前の最高記録は更新された.250ccクラスはR・0・クラークが61.62kmの平均時速で優勝した.

 この記録は年々大幅に更新され,オートバイの技術的向上はめざましいものがあったが,1924年の第13回TTレースでは,ノートンに乗ったアレック・べネットが平均時速99.17km(61.64マイル,当時は60マイルがスピードの壁といわれていた)で,時速100kmにもう一歩という新記鐙を樹立した.

 TTレースの記録はこの年あたりからさらに急カーブで上昇し,2年後の1926年にはJ・H・シソプソンがA・J・Sによって待望の平均時速100kmの壁を破り,そのタイトルは110km/h上の水準で争われるようになった.

 さらに1931年にノートンによって,同じJ・H・シンプソンが記録を130km/hに近い水準に引き上げたが,1939年にスーパーチャージャー付きBMWでセニア・クラスに出場したゲオルグ・マイェルが最高ラップ146.01km/hを出し150km/hにもうひと息という記録を樹立したが,それからの2カ月後の1939年8月,ヒトラーによって第二次世界大戦の火蓋は切られ,TTレースにおける記録の更新はふたたび中断された.

デユークの活躍と150キロの壁

1947年,戦後の混乱も一応落ちつくと,TTレースは再開されたが,このころから有名なサーの称号をもつスピードの王者,ゼオフ・デユークやレス・グラハム,ファーガス・アンダーソソ,ジョン・サーティーズといった重量級選手の活躍が始まる.

 1950年,第32回TTレースにデユークはノートンでセニア・クラスに出場し、ついに平均時速148.46km(92.27mph)の新記録をマークして優勝した.

 翌1951年にはマウンテン・コース2周の125ccクラスもおこなわれ,モンディアルが初優勝をとげたが,セニア・クラスではノートンに乗るゼオフ・デユークが自己の記録を破る平均時速150.97kmの新記録をマークし,ここにマウンテン・コースにおける150km/hのスピードの壁は破られた.

 この年から125cc,250cc両クラスともその記録は大巾に向上し,125ccでは平均時速も120km/h台に引き上げられた.1953年にはMVアグスタのレス・グラハムは125.16km/hで優勝.1960年にMVのウビアリが137.731km/hでこれを破るまで7年間不敗の大記録を樹立した.そして61年度TTレースにおいてホンダを駆るマイク・へイルウッドはさらに記録を更新,141.99km/hの平均速度をマークした.

 250ccクラスでは.NSUのヴェルナ・ハースが1954年に平均時速146.22km/hを記録したが,これは6年間も更新されず,60年度TTではじめてMVのホッキングがこれを破ったが,翌61年度TTでは,早くもへイルウッドのホンダ・フォアによって大きく書きあらためられ,彼の樹立した158.32km/hが250CCクラスの最高記録となった.

 ジュニア・クラスでは1952年にデユークが平均時速140km/hの壁を破ってから年々記録は着実に更新され続けていたが,1960年度TTでは250ccクラスとの記録差もせばまり,61年度TTでは,逆にへイルウッドの樹てた250ccクラスの記録より3マイル以上も下廻る低調である.

 セニア・クラスほ1960年のTTでは,MVのジョン・サーティーズによって念願の“オーバー・ワン・トン”(時速100マイル突破)の大記録を樹立,102.44マイル,164.82km/hのレコードをしるした.1961年度TTレースでは,ホンダによって軽量2クラスを征覇したマイク・へイルウッドが.セニア・クラスでも“マンクス・ノートン”(0.h.c,シングル)で優勝し,TT史上初のトリプル・クラウンとなった.



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