その1 その2 その3 その4 その5
                            R C 物 語(その3)

1960マン島TT−250cc・4−5−6位−

 この年のマン島TTに出場するホンダ,スズキ両チームは,変則的な体制をとることになった.ホンダチームとスズキチームが独立組織のまま合同し,立松団長(小型自動車工業会)をリーダーとする日本選手団を結成したのである.

 これは,その当時の情況からいって対内的に通りのよい措置だったと思われる.もちろん企業間のライバル意識がないわけではなかった.スズキのTTレース出場を聞いたとき,ホンダのエンジニアの心を,ちらりとこんな思いもかすめた−まだ世界のトップレベルを追っている最中なのに,国内では追われる身になった−.

 けれども,そのころの情勢では仲間意識のほうがライバル意識をしのいだ.“世界水準”への突破口を開くため共に立ち上がった同志への共感である.

 例えば,スズキのTT出場用マシン.125ツインのRT60は.ホンダの荒川テストコースを走っている.この年の4月中句から5月上旬まで,モーターサイクリスト誌の肝煎りで名ライダー,ジェフ・デユークが日本に滞在して国際レースの”技術研修会”を開いた.その折に,スズキチームは荒川コースを借用している.デユークも,そこでRT60を試みて「加速のよいマシンだ」と感想をのべたようだ.

 ホンダ,スズキ両チームは,日本チームの旗印をかかげBOACのジェットライナー.コメットでハネダを飛び立った.

 このシーズンのホンダチームは,二手に分かれた.TTからの前半3レースに出る第1陣と,ドイツGP以後の後半3レースに出る第2陣である.この時出発したのほ河島喜好監督にひきいられた先発第1陣,ライダーは鈴木義一,谷口尚巳,島崎貞夫,田中禎助,北野元だった.

 外人契紛ライダーのボブ・ブラウンとトム・フィリスとは,マン島でホンダ組と交流した.北野以外の日本人組にとって2度目のマン島とはいえ,マウンテンコースとは初対面である.すでに数度のシニアTTレース出場経験をもちマウンテンコースに慣れているボブ・ブラウンは,すすんでコース説明後,練習のコーチ役を買って出た.彼は,自分のノウハウを隠しておいて,ひとり抜け駆けの功名を狙うタイプの契約ライダーではなかった.

 ボブは,日本人ライダーの先に立って走ってみせ,ブレーキングポイント,クリッピングポイント,コーナリングラインのとり方などを実地で教えた.また,逆に後方を追走し,日本人ライダーの走法で自分の気付いた不十分な点を忠告してくれたりした.

 練習の合間に,彼が繰り返して日本人組に教え込もうとしたのは,“ライダーキラー”に注意しろということだった.“ライダーキラー”とは,リズムに乗らない走り方をしている,不慣れな遅いライダー,不意に他車の走路正面に出てくるようなライダーである.練習走行や混戦模様のレースでは,特に注意してそういうライダーを敬遠しなければいけない.近づいて走ったら巻き込まれてとんでもない目に会うと,ボブは何回もいった.

 ボブ・ブラウンもトム・フィリスもクラブマン出で,ホンダ以前は純ワークスチームと契約した経験はない.しかし2人ともメカニックの腕をもっていた.ボブのほうには,ノートンのワークスサポートを受けてメジャーレースを転戦した経験もある.そういう経歴の強味を生かし,マシンのセッティングについても有益な助言のできるライダーだった.

 1960マン島TT用・RC143Eエンジンは,前シーズンの125ccユニットより確実に10〜20%パワーアップしていた.最高出力・約20ps/13,500rpm,160PS/Lのレベルである.RC161Eのほうも初期タイプで40ps近辺に手が届こうとしていた.

 だが公式予選が始まってみると,これでもライバル勢の性能に見劣りがした.125cc,250cc両クラスで競いあうMVアグスタもMZも,ホンダに劣らずパワーアップの成果をみせていた.

 東ドイツ車,MZ125の場合も前シーズン用エンジンから約2ps上げたといわれた.追うホンダとしては,それ以上のペースで出力向上を続けていかなければ,世界水準を促えられないことになる.

 とはいえ,ヴァルター・カーデンの率いるMZの開発チームもまた,そういう苦しみをくぐり抜けてきたのだ.MZ 2ストローク単レーシングエンジンの出発点,1953(昭28)年用ユニットは出力わずか 9ps/7,800rpm に過ぎなかった.カーデンのチームは以後NSUやMVやドゥカティを標的として,毎シーズン平均2ps,この世界で信じがたいペースのパワーアップを7年間も積み重ねてきた.その結果が,1959,1960年現在,MVを僅差まで追い詰めた出力値だった.

 間もなく,そのMZにかわって,開発にはずみのついたホンダが,それ以上の速さで出力/回転数を急上昇させ,グランプリ界を驚嘆させる日が訪れる.

 しかし1960年TT現在,ホンダチームの予選タイムは,まだMVやMZのライダーに水を開けられていた.MZチームから引き抜かれたMV 125のNo.1ライダー,タベリのタイムは26分22秒,ホンダRC143勢は29分台である.コースの長さ,難度の高くなったことを勘定に入れれば,相対的な比率差は前年より縮まっている.しかしチームとしての期待値には手が届いていない.

 主因は技術的な問題だった.とりわけ吸気系とギアトレインである.

 察するに,吸気系の悩みは初めて走るマウンテンコースの600mに及ぶ標高差だったろう.そのどこに合わせて設定すればよいか.それと全域整調の微妙なフラットバルブ式キャブレター特性のからんだ問題ではなかったか,ギアトレインのほうは,苛酷なマン島が引き出したバックラッシュ共振のような問題だったと思われる.

 予選タイムは河島監督以下のチーム員を沈み込ませた.

 するとボブ・プラウンが,ゆったりしたオーストラリアなまりで一言,二言適切なコトバで元気づけてくれる.そんな心遣いに気を取りなおし,なごやかさと勇気を回復しながら,ボブというライダーの人間佐を味わったりもした.

 苦しい幕開けの展開にもかかわらず,6月13日のレースでホンダ勢は再び予想以上の成果をおさめることができた.

 ホンダでは,ライトウェイト125ccクラスに大挙6車を出場させた.このクラスは,当然のように前年と同じMVとMZの上位争いが展開した.ホンダRC143ほ,その後方で着実なペースを守った.結果はウッビアリ/ホッキング/タベリのMV“トリオ”が順当な1−2−3フィニッシュを決めた.続いてMZの2車.

 ホンダの先頭は前年同様6位でゴールインした谷口尚巳.以下,鈴木義一,島崎,田中髀浮ェ7〜9位で続く.さらにピットイン/プラグ交換のロスを取りもどしたトム・フィリスが10位.一時は修正タイムで6位を占めながらマシン不調で遅れたTT全クラス最年少出場者の北野元も19位ですべり込み,ホンダ全車完走への責任を果した.

 成績は,まず前回なみである.チーム賞も1〜3位独占のMVにさらわれ,ホンダのものにはならなかった.しかし純粋に性能面からみたホンダの進歩は明らかだった.優勝したMV/ウッビアリの平均速度とベストラップ速度は,前年にくらべてそれぞれ15.5%,14.8%向上している(コースの違いを無視した伸び率である).これに対してホンダ/谷口の平均速度は17.8%も高くなっている.

 ライトウェイト250ccクラスに,ホンダは鈴木義一,谷口,北野,ブラウン,フィリス,5台のRC161を送り出した.このレースは,”MVのトリオ”とMZの2車,それにMVから移籍した単気筒モリーニのプロビーニ,ドゥカティのへイルウッドが上位を奪いあう形勢でスタートした.その真っ只中へトム・フィリスのホンダ“フォア”が果敢に割り込む.ホンダにとって,先ずは快調のすべり出しだった.

 間もなく鈴木義一はギアボックス故障で棄権,フィリスもピットイン/燃料供給で後退した。しかし北野,ブラウン,谷口の3車は手堅いペースで上位陣を追う。やがて上位陣の後退・脱落に助けられ,ホンダ努ほ,4位ブラウン,5位北野,そしてまたもや6位の谷口という順でゴールラインを越えた.

 303.6km,2時間におよぶレースで,RC161/ブラウンのタイムと平均速度は,優勝したMVアグスタ/ホッキングに対して,それぞれ6分,7km/hの差まで詰めていた.レース前のトラブル状況,それがまだ一掃されぬままでの出走だったことを思えば,立派な成蹟といってよい.

 マン島TT速報のロイター通信テレックスは,次の電文を世界に流した.

「本日より開かれたマン島TTレースにおいて注目に価する偉業のひとつは,日本のホンダ製マシンの示した性能だった.ホンダのライダーは250ccクラスで6位までに3車入賞,125ccクラスでは6位を獲得した」

 本田技研では,レースの1週間後,6月20日の朝刊に,この電文とCB72の写真による“マン島出場報告”的な半ページ広告を載せた.サブコピイには「日本人が体得した最高記録」,そして「イタリアのMVに敗れる」とあった.

1960年後半・上昇期

 マン島ののち,困難なヨーロッパ転戦の時期が始まった。

 この時期のマシンには疲れが目立った.マン島の練習走行で捉えたトラブル原因は,すぐ研究所につたえられ,すでに新設計の対策部品の手当てもついている.テストも進行している.しかしまだ現地発送の段階を迎えられない.レース現場では,当初型を整備担当者の腕であやすように継続使用している.この当時は,メカニックの個人的な熟練に大きい比重がかかっていた.ギアトレインなど,まずキチリとなじむギアを確保し,経験とコツを駆使してよい感じに組み付けていく.それで回る,回らないが決まるようなところがあった.
 そういう手厚い看護を受けながらも,レースごとにエンジンの調子が下がっていく.加えてフィリス,谷口,田中髀3選手の負傷も痛手となった.

 6月25日,オランダTTレース125ccクラスでは,フィリスの代役として新加入のジム・レッドマンが奮戦,優勝MV/ウッビアリとわずか41秒差の4位を獲得した.鈴木義一も6位に入った.だが250ccのほうは1車も入賞圏に送り込めなかった.

 続く7月3日のベルギーGPでは125ccクラスも入賞できない(250クラス不開催).ホンダのトップは,優勝車MZ/デグナーに1分半以上遅れての7着、北野である.平均速度160km/hを超すスパ・フランコルシャンの高速度サーキッドでは,RC143Eの信頼佐よりも,ライバルに対する出力不足のほうが表面に出た.

 その7月 チーム第2陣がヨーロッパに乗り込んできた.ドイツGP以降の3レースを担当する関口監督,佐藤幸雄 ,福田貞夫,田中健二郎,高橋国光のライダー陣,そして整備担当者たちである.しかも新メンバーとともにマン島の経験で設計変更した対策部品も現地に届いた.

 ドイツGPは悲しみと喜びの激しくより合わされた記憶となった.レース前ボブ・ブラウンが練習中のアクシデントで世を去った・マン島で,日本人ライダーに向かって,遅い他車にはくれぐれも注意するようにと教えた彼が,そういう状況に巻き込まれたのである.チーム員は暗い気持に押し包まれた.

 けれども,7月24日の250ccレースで田中健二郎は,そんな気分をはね返すような力走のすえ、MVのホッキングとウッビアリに続く3位を勝ち取った.しかもMZの名手,かつてグッチのワークス500V8で名をあげたデイッキー・デイルに1秒競り勝ってのゴールだった・田中健二郎は,日本チーム/日本人ライダーとして初めて,選手権レースの表彰台に立った.そのときチームのメン/て−たちは,パドックで抱き合って泣いた.

 対策設計部品はRC161に活力を吹き込んだ・それからの250cc“フォア”は,潜在性能をフルに発揮する収獲期に向かった.

 レース直後,MVのチャンピオン,ジョン・サーティースは,次のような意味のコメントを記事にした。−ホンダの改良型250は燃料系トラブルを克服したらしいし、上り坂の加速でMVツインと同等の佐餞に達したようだ.金に糸目をつけるような態度では,ホンダに勝てない−

 ホンダの人びとの辛苦は,わずか2シーズン,いな実質は選手権出場5レース目でマシンをこのレベルに到達させた.

 8月6日のアルスターGPでは,RC161のフィリスがMV/ウッビアリと2秒差の2位,1.2秒後に3位レッドマン・高橋国光も5位に入った・田中健二郎も上位につけていたが転倒右脚骨折の重傷を負った.

 RC161Eのギアトレイン疾患が完治したことは,9月11日のモンツァ,イタリアGPでも証明された・平均速度175km/hに達するこの高速コースで,レッドマンはウッビアリのMVに追いすがり,デグナーのMZを抑え付けて2位を手に入れた。さらに4〜6位に高橋,ミラーニ,佐藤幸雄 ,入賞圏に計4車をなだれこませた。この成果は,RC161Eが出力のみでなく,連続高回転に耐える高い信頼性をものにした何よりの証拠となるだろう.

 イタリアGPの結果,ホンダは250ccメーカー得点でMZをしのぎ,ランキング2位を獲得した.

 ホンダGPマシンのめざましい活躍は当然注目を集めた.チャンピオンシップ戦の終了より以前に,イギリスの“モーターサイクル”誌は,こんなふうな意見を掲載していた.

 −今年の日本マシンは,見た技術者に尊敬の念を抱かせる“イタリア製以上”の出来ばえだった.しかも高速度技術のつかみ方はそれ以上に確実で知的だ.これなら1962年,いやもっと早く無敵になるだろう−.さらに日本製8mmシネカメラの精巧さを引例して日本が世界市場で有力な地位に立つ可能憧性をほのめかしていた.

 2輪誌だけではなく,4輪の雑誌までホンダGPマシンがらみの記事を載せた.イギリスのモーター誌はイタリアGP直後に−日本製の14000rpmも回るホンダ250がモンツアで2位に入った.登場以来の改良にはめざましいものがあった.この調子ならFlへの進出も大いに期待されるところだ−と書いている.どちらも,情報分析/長期予測に定評あるイギリス誌らしい観測である.

 英誌の特筆したように14000rpmで高信頼性をもつ250ccエンジンは,これまでにない技術的成果だった.ホンダはRC161”改”で高回転・高出力技術に新しいステップを刻んだ.1961年シーズンの展望に自信と希望が生まれた.

 ここで客観情勢が意外な方向に急転回した。年があけて間もない1月15日に,最大のライバルだったMVアグスタが選手権レースからの引退を発表したのだ.

 −これまでの成果で出場の目的は達した.かつ年間レース数の増加したことが過大負担となった−それが出場中止声明の主旨だった.しかも,われわれの残した記録が破られる日が来ればMVは再びサーキットに現れるだろう−不敵な条件もそえてある.

 ホンダとしては,いよいよと意気込んだところで肩すかしをされた感じだった。しかしMVの追加条件を見て,それならばMVの記録を破ろうという新たな闘志が湧いてきた.

 一方,浅間火山レースの強力なライバル・ヤマハが1961年TTからの選手権出場を発表した。まだ宿願のTTもチャンピオンシップも制覇していないホンダは,国内メーカーからの手ごわい追走を受ける立場になった.

1961年マシン・フレーム典型確立−日本人ライダー初優勝−

 1961年選手権11レースは4月のスペインGPで始まる。例年通り6月に行われるマン島TTは、西ドイツGP,フランスGPに続く第4ラウンドである.したがって新シーズン用車の開発期間は,かなり短くなった.

 ホンダの1961年レース方針は−125・250両クラスで全11レースに出場する,シーズン初頭の3レースは小手調べとして,宿願のマン島TT制覇を総力投入の目標とする−ことが大筋となった.

 実際的なマシンの設計面では,特に250cc車のフレーム強化,125ccエンジンの出力向上が重要課題となった.

 シヤシー強度・剛性とエンジン出力とは,いつも抜きつ抜かれつの関係,たがいに刺激しあって性能を高めていく関係にある。RC161Eが高出力と高信頼性を確保したアルスターGPあたりで,フレーム剛性の向上が痛感されるようになった。ライダーの指摘によると,ことにライバルに追尾された場合など、コーナーの立ち上がりで起こる後輪の振れがコントロールをむずかしくしているということだった.

 このシーズンの遠征チームには,シヤシー設計の馬場利次が同行していた。翌年にはサスペンション担当者,のちに後期RC系の車体設計者となる斎藤馨がチームと行動を共にした.現場の空気を吸いながら,絶え間なく押し寄せる問題点と取り組み,ライダーの声を生で聞く経験は,設計担当者たちの得がたい財産として残った.

 1961年用のフレームは,新型式のダブルバックボーンに改められた。この構成は,見かたによって,部材の一部分(ダウンチューブ部分)をエンジンに肩代りさせた開放型ダブルクレードルともいえよう.主材ほクロームモリブデン鋼のスウェージ加工テーバー管で,アルゴンアーク溶接で接合されている。この新設計によって,ステアリングヘッドは5本の部材をからめ合わせた堅固な構成になった.複雑な溶接部分の工作には,クラック発生のおそれを除くため,残留応力の分布を考慮した加工技術の研究が積み重ねられた。エンジン後端を支持するバックボーン下端の後部マウントブラケットも従来の開放断面が閉断面に改められた.

 このフレームを一見した他チームのエンジニアは,おそらくホンダ製エンジンに対するのと同等の感銘を与えられたのではないだろうか.そこにほホンダのレースに対する意志と構えが凝縮されているようにさえ思える。

 新設計のRC162E(250cc)エンジンは,前傾角を35度から30度に減少,吸気系レイアウトにも手を加えて新型フレームとの干渉を避けた。キャブレターはフロートチャンバー1体型,ピストンバルブ式が採用された.初期のエンジンに用いられたフラットバルブ式キャブレターは,低中速のスムーズなつなぎと全開設定との調和のむずかしさが,しばしば難点となっていた。またこのエンジンほ,ドライサンプ方式で全高・重心の低下をはかっている。

 このRC162によってホンダRC系列の標準設計,フレームまでふくめた“典型”が確立された.特にフレーム/シヤシーの基本構成は,幾多の細部改良を受けながら,以後のRC系マシンで一貫して使い続けられることになる。

 シーズン開幕後,マン島TTまでの3レースは,ホンダの予期どおり,厳しい形勢が続いた.

 しかし・ホンダの進境と健闘には,目覚ましいものがあった.緒戦スペインGPの125ccでは、フィリスがデグナーを下してトップでゴールイン,レッドマンが3位に入った。ホンダが選手権に挑戦して初めての優勝,RC系マシンにとっても最初の記念すべき優勝である.

 続く西ドイツGPではRC162を駆る高橋国光が,日本人ライダーとして最初の選手権レース優勝を勝ち取り,ホッケンハイムのメーンポールに日の丸をひるがえらせた。これはホンダ250ccマシンの初優勝でもあった.

 だがライバルも手強かった.とりわけMZのデグナーが強敵として行く手に立ちはだかった。スペインの125ccでほホンダ1,3位の間に2位デグナーが割り込んだ.250ccクラスは,わざわざ”ブリヴァータ PRIVAT(個人出場)”と大書したMV/ホッキングがさらった。西ドイツの125ccはデグナーをトップにMZが上位を独占した.

 第3ラウンド,6月のフランスGP・125ccはホンダが1,3・5,6位を抑えた.2位に割り込んだのは・またしてもMZ/デグナー・4位は異色のポート構成を切り札とするイギリス製2ストローク車,EMCに乗るへイルウッドだった.

 そのへイルウッドは250ccクラスで初めてホンダを試みた。結果は2位・ホンダは1−2−3を決め,3位高橋は再び表彰台にのぼった。

 そして6月12日,ホンダにとって3度目のマン島TTが開幕する。

マン島TT・完勝

 河島監督は勝算をもっていた.出発のとき社長に向かって,はっきりと「今年は勝ってみせます」と決意をのべた.本田宗一郎は,ぽつりと答えた「3年目だからなあ」.勝ってほしい,勝ちたいという含みが言外にあふれていた.

 ホンダは,フィリス,レッドマン,HSCのメンバーの他に,フランス/ドイツGPで貸与車に乗ったタベリ,加えてへイルウッドとマッキンタイアの両雄,豪華なライダーをそろえた.この年は,ホンダに続くスズキとヤマハが125/250両クラスのマシンをマン島に搬入,日本の3大メーカーが初めて顔を合わせることになった.

 結果はライト級250ccレース,今は“ウルトラライト”とよばれる125ccレースともホンダの圧勝で終わった.両クラスでホンダが1〜5位を埋め尽したのである.

 250ccにRC162で優勝したへイルウッドは,5周・301.85kmを1時間55分03秒6,平均速度158.29km/hで走り切った.前年MV/ホッキングの記録したタイムを5分40秒,速度を8km/hも引き上げた新記録である.不敵な名ライダー,マッキンタイアは最終ラップの半ばまで快走を続けながら,オイル系統不調で惜しくもリタイアした.しかしその間に1周22分44秒,160.22km/h,あと僅かで“0Ver the ton”(100mph突破)のラップ新記嫁を樹立していた.これはMV/ウッビアリの旧記録より約1分,6.5km/h速い.

 しかもホンダ/へイルウッドのレース速度は,ジュニア級350cc優勝のフィル・リードを約8km/hも上まわっていた.125ccクラスのへイルウッドによる優勝タイム,タベリによるベストラップも,当然のように新記録だった.ホンダのライダーたちは,この栄誉に加えて11個のシルバーレプリカを“収集”した.さらに250では高橋/レッドマン/谷口のホンダ”A”チーム,125ではへイルウッド/タグェリ/フィリスのホンダ“B”チームがマニュファクチャラーズチーム賞を受賞した.

 マン島TTのウルトラライト/ライト級におけるMVアグスタの記録を,ホンダはすべて破った.1959年,初めてのマン島でMVの走りに圧倒されながら、河島喜好が「どうか3年下さい」と本田宗一郎に書いた,その3年目だった。

 TTレースを報道するデイリーミラー紙は,こんなふうに書いた.「ホンダは輝かしい成績をTTの歴史に残した.優勝車を分解したところ驚くほど優れており,率直にいって恐怖感を覚えるほどだった.どのようなヨーロッパ製優秀レーサーのコピーでもなかった」

125,250cc選手権獲得・1962年へ

 RC162はマン島ののちも安定した性能で各グランプリを制圧しながら,シーズン最終レースまで走り抜いた.幾つものレースでMVの残した旧記録を破り,すべてのレースで少なくとも1〜3位以上の入賞を独占し,250クラスのチャンピオンをライダーとメーカーに勝ち取らせた.

 RC162の基本設計は,次シーズン用のRC163に大きい変更もなく受けつがれ,再び安定無比の走りぶりをしめしながら,1962(昭37)年シーズンの250ccクラスをホンダ独占レースで埋めていく.

 これに対して125ccクラスのほうは,1961年シーズンを通して苦しいレースが続いた。手強いライバルはデグナーの駆るMZである.今や‘切り札”技術のロータリーディスク式バルブを熟成段階にもち込んだ2ストロークは,一説に24〜25ps/10800rpmといわれた.

 ホンダ“ツイン”は,多様な対抗策を投入して事態の打開をはかった.一時的には前シーズン型も再起用された.バルブ系の設計に打開の道が求められた.数種類のS/B比が試みられた.ロングストローク版の可能性がさぐられた.

 最終的には125ccクラスのライダー/マニュファクチャラー選手権を僅差で手に入れることができた.だが,その過程は薄氷をふむスリルにみちていた.

 1962年シーズン用エンジンは,その教訓を生かし250”フォア”を半分にしたレイアウトすなわち中央ギアトレイン駆動DOHCと中央出力取出しギアをもつRC145Eが主力となった.

 このユニットは,シリンダー寸法も模索時代の試行錯誤を過ぎて,RC142E以来の標準寸法44×41mmに落ちついた(RC143Eは46×37.5mm,S/B比0.82だった。他に1以上のS/B比も試みられた).

 このエンジンを使用するRC145はグランプリ界で稀にみるほど完走率の高いマシンとうたわれ,1962年シーズンの125ccクラス選手権を制覇した.

 1962年シーズンのホンダチームは,出場クラスを上下に拡大,従来の125/250ccクラスに加えて350cc,50cc両クラスでも選手権をねらうことになった.

 350ccクラスの出場車は,250“フォア”を3mmだけボアアウト,47×41mmとした285CC“フォア”RC170である.1961年のRC162は250ccながら再三350ccクラス以上のレース速度を記録していた.マン島での250ccラップ新記録は,前年にMVアグスタ350でサーティースが樹立した記録を上回っていた.その実績からみても,250“フォア”ボアアウト版の選択は自然な道と思えた.

 50ccクラスには,先ずRC111が投入され,終盤でRCl12がバックアップした.RC111は右ギアトレイン駆動DOHC,前傾単気筒で,市販“カブ”レーサー,CR110の究極的チューニング版とみてよい.

 しかし,FIMが1962年シーズンから選手権レースとして公認した50ccクラスには,一筋なわではいかぬライバル群が控えていた.スズキとクライドラー,どちらも2ストロークである.この当時2ストロークは表面積/発熱量比から小排気量ほど有利と判断されていた.しかもホンダの信奉する4ストロークDOHCよりコンパクト/軽量である.スズキは名手デグナーをMZからスカウトしていた.クライドラーには異才H・Gアンシャイトがいた.彼は同車の12段変速機を自在に操って,50ccの狭いパワーバンドをカバーする才能の持ち主である.

 ホンダは,シーズンを通してこの苦手コンビ2車事に先を越された.かろうじて一矢報いたのは,急遽開発した50ccDOHIC“ツイン”RC112が登板する最終盤になってだった.このクラスでの苦境は,なおそれ以後も続くだろう.

 ホンダがいくつかの頂点をきわめたとき,新しいいくつもの頂点がホンダの技術的挑戦を迫っていた.

 一方,頂点に立った分野でのホンダほ,すでに追われる立場にあった.追手はスズキとヤマハであり,2ストロークエンジン技術でもあった。両社は2ストロークに賭けてホンダ追走の技術開発/レース体制確立を急ピッチで進めている.

 ホンダは,そういう情況を技術の創造で支配しながら,1966(昭41)年の全種目制覇に近づいていく.その過程で,かつてない気筒数のエンジン,前代未聞の最高出力回転数21500rpmのエンジンなどが創り出された.

 以後5シーズン,そういうホンダの壮烈な意志がサーキットを疾走する.


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