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     1989年三樹書房発行の『グランプリレース 栄光を求めて 1959〜1967』から

                      レースの楽しさ厳しさ

                        本田宗一郎談(1962年)

 僕がエンジンというものに興味をもちはじめたのは,確か四つか五つのときだった・家から1里(約3.9K)ぐらい離れたところに精米屋があり,そこで大きな焼玉エンジンを使っていた.僕はおじいさんの背中におぶさって,もうもうたる排気ガスを出しながら、大きな音をたてて回っているエンジンを,飽かずにいつまでも眺めていたものである.

 小学杖の2年のとき,僕の村にはじめてホロ付の自動車がやってきた.僕は自転車であわてて後を追っかけていった.そうすると自動車が止まる.止まるとオイルがこってりと落ちる・その熱いオイルの匂いが何ともいえなくて,地面に鼻をくっつけて深々と吸い込んだものである.

 大正5年だったと思うが,僕の家から5里ぐらい離れた練兵場で,当時「空の王者」といわれたアメリカ人のアート・スミスが曲芸飛行をやるというのを聞いて,矢も楯もたまらず親父の金2銭也を盗んで,そっと自転車を出し夢中で山を越えて走った。ところがやっとたどりついてみると,入場料は10葉だし,そのうえ回りに板塀を張りめぐらしてあるので入れない.仕方がないから太い松の木に登り,下に技を集めて見えないようにして,スミスが飛び立つのを今か今かと待っていた.

 その頃の飛行機は複葉で,プロペラが後ろで回っていた.飛行帽をかぶり眼鏡をかけたスミスは一番突先に乗って,木の葉落しや宙返りをつぎつぎにやって見せた。これにはすっかり参ってしまった.彼にあやかりたくて,学帽を後ろに向けてかぶり,夢中でペダルを踏んで家にかえったものである.

 それからが大変である.寝ても醒めてもスミスの影像が頭にチラついて仕方がない。とうとう竹で造ったプロペラを自転車の前につけて親父の鳥打帽に紙製の眼鏡というものものしいいでたちで村中飛び回った記憶がある.

 17歳のとき.東京の自動車修理工場にデッチ小僧として入った.一年ぐらいたってから,その親父がレーサーが好きで,僕に造ってみろという。当時砲兵工廠にベンツの6気筒を真似して造ったエソジンがあると聞きつけたので,すぐ仕入れにいってビュイックのフレームに載せたのはいいが,重過ぎてうまく走らない.馬力もありトルクもあるが,ギヤが欠けてしまうし,カーブの切れもよくなかった.図面一枚引くでもなし,手先きの器用さに頼って.見よう見まねで銑板を叩いたり,熔接したりするのだから無理もない.

 そのつぎは,津田沼飛行学校からカーチスの航空エンジンを払い下げて貰って,オークランドというアメリカ製フレームにとりつけた。このエンジンは90馬力で,その頃のエンジンの中では一番軽かった.ところが.いざ走らせてみると,プラグがかぶってまともに回らない.いまでは笑い話だが,プラグのナンバー(熱価)を代えるというような知識もないから,オイルがかぶらないようにクランクケースを直したり,苦心サンタンしてやっとモノにした.洲崎の飛行場のテストで時速100キロをマークしたのだから,当時としては相当な性能だったといえる.それ以来レーサー造りは病みつきになってしまった。

 31歳(昭和13年)のとき,多摩川レース場で全日本スピード選手権大会があると聞いて僕はまたレーサー造りにとりかかった.

 当時フォードのV8型が大流行していたが,それを使うのではシャクだから,みんなの嫌うフォード・フォアを改造することにした.バルブが焼付かないようにベンザを切って鋼系統のメタルを熔接したり,スーパー・チャージャーをつけたり.多摩川のコースは左回りだから,エンジンを10度傾けて重心を左にもっていったり秘術を尽した.

 スタート間もなく僕の車はトップに立ち,2位を30mくらい離して時速120キロくらいで得意になって走っていた.ところが視界の効かないカーブにさしかかったとき,左手のピットから急に車が飛び出してきた.あわててハンドルを右に切ったが間に合わず.こちらの後輪と向うの前輪が接触,三回くらい高高ともんどり打って引っくり返ってしまった.おかげで,僕は右手を根元から折り.眼鏡がつぶれて日のふちをぐしゃぐしゃに切ってしまった.同乗の弟は背骨を三カ所も折って小便が出ず危篤に陥るほどの重傷をうけた.

 いまでも覚えていることは,飛び上って地面に落ちるまでのほんの僅かな瞬間に,朝の味噌汁がうまかったことや,まだレースを続けることができるだろうかとか,いろんなことがチカチカと素晴らしい速さで脳中にひらめいたことである.いまでこそ条件反射といったような難しい用語を使うが,僕はそのとき手や足を動かすことには限度があるが,考える能力というものは,訓練さえ積めば無限といっていいくらいに拡がっていくものだということを悟った.

 同じ頃.勝ちっぷりはあまりよくなかったが,モーターサイクル・レースもよくやった.他の連中は最新の輸入車を持ってくるが,僕はそれには満足できないので,その辺に転がっているボロ・エンジンを改造したり,ハンドルを曲げたりして出場したものだ.とにかく僕は,どんなものでも自分で工夫しなければ気がすまない性分で,それが今日の本田技研の根源になっているということもできる.

 戦後も,うちで造っていた50cc車を小学校の校庭にもって行ってよくレースをやった.コースに縄を張って,転んでは起き転んでは起きてクタクタになるまでレースを続けたものだ.会社創立後は,専務から「あんまり乗るなよ、社長」と止められるもので乗らなくなったが,42歳まで静岡に行ったり名古屋に行ったり,とにかくレースに出られればご機嫌だった.しかし,いまから考えると,その頃のレースは幼稚なもので,レースなんていえたシロモノではなかった.

 僕は,昭和28年にうちの工場で使う工作機械を買うためにヨーロッパに渡り,ついでにマン島TTレースを見に行って度肝を抜かれた.理由は,うちのドリーム(250cc)が13馬力しか出ていないのに,NSUが36馬力も出していることだった.これには参った.僕は戦前からTTレースのことは知っていたし,これに出て勝たなければ世界市場に進出できないとはかねがね思っていた.しかし人がやることだから自分にできないはずはない,ホンダが出場するまえに一度参考までに見ておこうという程度の不敵な根性で行ったところが,13馬力対36馬力とその差があまり大きいのでガーンときた.

 これではいけないというので,レノルドのチェンやエーボンのタイヤなど、当時の最新レース用パーツをしこたま買い込み,競輪の選手と間違えられながらかついで帰ってきたものだ.それからあわてて研究部をつくったが,思うように成果はあがらなかった.

 昭和30年の秋に行なわれた第1回浅間火山レースのときは,ただ無闇に勝ちたくて連日徹夜でレーサー造りに打ち込んだが見事に敗けてしまった.しかもその翌年も敗けてしまった.この連敗は,初めてTTレースを見たときと同じようにショックだった.とにかく2サイクルから4サイクルに切換えたばかりだったし,基礎研究どころか測定器もない状態で,ただ圧縮比を上げたり,バルブを軽くしたり,オーバー・ヒートしないように工夫するといった程度の知識しか持ち合わせていなかったのだから,勝とうというのがどだい無理である.問題は4サイクルの場合当然起るバルプ・ジャンピングを,全然考えなかったということに尽きる.2サイクルだと回転を上げるためにはポートを大きくしたりするだけで割に簡単だが,4サイクルはバルブがあるために,カム形状とか.バルブやスプリングの材質といったいろんなファクターを考えなければいけないということである.そこで3回目の浅間レースにほ思いきって4気筒車を出して見事圧勝してしまった.いまにして思えば,あの連敗がなければ,反省の時期がもっと遅れ,本田技研が今日のように世界グランプリに優勝するチャンスもなかったであろう.常勝将軍の盲点は.こういうところにあるということを感じる.

 話は変るが、本田はなぜ250ccという小容量車に4気筒を採用したかと質問する人がいる。理由は簡単である.同じトルクなら回転が早い方が馬力が出るという公式がある.だが無闇に回転を早くするだけでは,耐久佐に欠ける.したがってピストン・スピードを遅くするには分割方式をとって4気筒にし,オーバー・スクェアにした方がいいに決まっている.ただし理論上はともかく造るとなると大変である.そこで僕は思った.手間がかかるとか,精度を出すのがむずかしいということなら,頭脳で解決できるし,精密な機械を入れればいいわけだ。それで4気筒に踏み切った.しかも浅間レースに出た事は同じ4気筒でもたった30馬力でドでかいエンジンだったが,61年型は45馬力で重量も軽くよりコンパクトになった.回転数も12,000回転から61年型は15,000回転ないし18,000回転と飛躍的に上り,15,000回転を常用してもつぶれないエンジンを造りあげた.

 一口に15,000回転というが,これだけの高回転エンジンは世界にも例がない,普通のエンジンのように,ピストンで吸い込んで,スパーク,そして排気なんてのんびりしたものではとても駄目だ.吸排機構に排気管のジェット効果や振動,音響といったものが全部からんでくる.しかも回転を高めれば倍数的な抵抗を生み,それに打ち勝つために,ベアリングやクランクの精度が要求される.61年型のクランクシャフト・アッセソブリ巾350ミリに対する振れが1000分の1ミリといえば,いかに大変なものであるかがわかろう.うちのレーサーで何台かオイル洩れがあったが,これは俗にいうクランクケースの巣洩れではない.つまり10,000回転くらいで大丈夫なものでも,15,000回転にもなると,放熱が一定でなくなるし,猛烈なバイブレーションが起き,そのうえ軽く造ってあるから方々にひずみがでて,オイル洩れの原因になるわけだ.結局は鋳造技術の問題で,今年(1962年)のレーサーはすでに解決ずみである。

 とにかく世界グランプリに勝つということは大変である.技術の壁を一歩一歩突き破って,はじめて勝利をわがモノにすることができる.それは,僕一人の力ではとてもできない.設計屋は設計屋として、加工屋も材料屋もテスト係も・・そしてライダーも,すべてが自分の立場でアイデアを出し合い,たがいに協力してこそ達成できるのだといえる.

 僕は,昨年(1961年),イタリアとスエーデンのグランプリを見にいったが、ミスター・ホンダがきたというので大いに観迎された.それはなぜかというと,彼らの考えている日本は,外国の技術を真似したり,買ったりする国であった.ところが世界の檜舞台でノートンやMVの真似でなく,本田独特のアイデアで,彼らが営々と築き上げてきた技術を見事に倒してしまったところに,彼らの驚きと尊敬があるわけだ.

 今年は新しく設けられた50ccと350ccクラスにも出場するし,125ccレーサーは24馬力に,250ccレーサーは48馬力に性能アップする予定でいる.勝負は水モノだから,どうなるかわからないが,昨年以上の戦蹟をあげたいと思っている.

 本田は,世界グランプリ出場3年目で,世界一になったが,チャンピオンベルトを一度締めた以上,こんどは自分で自分の記録に挑戦する以外にない.レーサーに結集した技術は世界一だが,マス・プロ車は別だ,四輪車は別だというわけにはいかない.世界一の喜びを味わうとともに,世界一の責任を深く噛みしめ,それに耐えぬくところに無限の進歩がある.


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