1989年三樹書房発行の『グランプリレース 栄光を求めて 1959〜1967』から

     <座談会>グランプリレース 栄光を求めて1964−1967


          《出席者》 秋鹿方彦 大城勝利 鈴木勝正 永島郁雄 山中幸三
【司会】 みなさんが,グランプリレースのチームメンバーとして活躍なさっていた頃についてお聞かせください.
【秋鹿】 私は2クラス優勝を獲得した年の1961年に始めてメカニックとしてメンバ−の一員に加わりました.その翌年の1962年は,CR系のマシンが誕生して,1963年はワークスの開発を大幅に遅らせた関係で,CRで戦いました.その時はチーフメカニックとしてで,1965年から最後のシーズンまでチーム監督を務めました.

【司会】 他の四人の方は中盤から,ホンダのグランプリを支えてきたメカニックの方々ですね。
【秋鹿】 そうです。当時,研究所に転勤したばかりの者も居りましたが,約半数は各製作所にお願いをして若くて意欲のある社員を推薦して戴き,私がレースメカニックとして育ててきました.

【司会】 マシンについてですが,たとえば250ccなどは4気筒から,後半の6気筒になってからの方が性能的に安定したように思えたのですが?
【秋鹿】 そうですね。私たちが1964年のモンツァ(イタリアGP)へ持っていった時は圧倒的に速かった.とにかく,他の4気筒に乗っていたライダーが,まるで500ccのマシンに抜かれたようだといっていました。

【司会】 そうとう速かったのですね.
【秋鹿】 レースでもだんとつで走っていました。ところが1/3ぐらい走ったところでオ−バーヒートして,ヤマハのマイク・ダフに抜かれて結局3位に入賞したにどまりました.

【司会】 それで後半にオイルクーラーが装着されたのですか?
【秋鹿】 それも理由の一つですが,3位になった直接の原因は,エンジンの熱によるベーパーロックだったのです.マシンをより小さくコンパクトに仕上げた結果、最高速度等は大巾に向上しましたが,エンジン,キャブの冷却が不充分だった訳です・その結果キャプレターの温度が上り,フユーエルパイプの温度も上がってガソリンが気化し,流れなくなったのです.
 こんな理由で,付随的にオイルクーラーなんかを装着したりしました.他にモンツァの失敗を生かして,当初,フルカバーだったカウリングの下側部分をカットして,オイルパンをむきだしにして,さらには,フインを一本ずつ溶接するなど改良をすすめました.それで,その後の日本GPのスズカでは勝つことができました.

【司会】 この時,350ccも同様ですか?
【秋鹿】 いいえ,350ccが6気筒になったのは,250cc 6気筒が完成後一年遅れでした.もちろんベースは250ccで単にボアーアップして297ccで戦いました。単なるボアーアップでしたがマシンとしては非常にバランスの良いすばらしいレベルだったと思っています.

【司会】 当時,レースの転戦をしながらのマシンの整備はどのようにしていたのですか.その時間等を教えてください.
【秋鹿】 マン島では,だいたい1ヵ月くらいいましたね.
【永島】 たしかにそのぐらい滞在していましたね.
【秋鹿】 それと,マン島のプラクティスは大変でした.モーニングプラクティスはAM4:45からAM6:00なのです,昼はPM12:00からPM2:00,イブニングプラクティスはPM6:00からPM8:00と決め られていました。
 このイブニングプラクティスでマシンのトラブルが起ると大変でした.なにしろ,8時になると公道だから開放されてしまう.マシンはトラックで取りに行くわけですけれども,トラックだとコースを一周するのに1時間もかかる。だからマシンをもってくると夜の9時半から10時,それから整備するとなると翌日の朝のプラクティスの時間にまにあわない.だから,食事するひまもなかったほどいそがしかった.そんな生活が2週間ほど続きました.

【司会】 体力的にかなりハードだったのですね.
【秋鹿】 ものすごくハードでした・そしてさらに当時はメカの人数も不足していたので,朝の担当,夜の担当というふうに分担できなかった.今日ここに集まったメンバーですべてですから……

【司会】 5人ですべてのクラスのマシンを整備なさっていたのですか.
【秋鹿】 そうです,このメンバーでもちろん,5クラスをやってきましたからその意味でも本当に大変でした。ほとんど寝るひまもなかったんじゃないかな.
【山中】 ぜんぜんありませんでした.

【司会】 1966年の5クラス制覇はそのような苦労をのりこえて達成できたわけですね。1961年の2クラス優勝の時に比べてどうだったのですか?あの時はMVの撤退などもありましたが.
【秋鹿】 1961年は,私は高橋国光のマシンだけを見ていれば良かったから比較的楽でした。私が監督をやっていた後半はマシンの数が増え50ccだけでも5台もあった.
【山中】 125ccが一番多かったですよ.
【永島】 250ccも,後半は同じくらいでした.ライダー1人で2台ないし3台ぐらいはあったからです.

【司会】 それはF−1でいうTカーだったわけですか.
【秋鹿】 そうですね.

【司会】 マシンを見て思うのですが,特にエンジンなどはハンドメイドに近いような印象を受けるのですが,ピストンや,ギアなどの補修パーツは十分用意されていたのですか?
【秋鹿】 部品はありましたけれど,今のように完全に部品管理したものを単に変換すれば良いというものではなかった.メカニックが自分の経験をもとに仕上げるということが必要で,そのウデがマシンの性能にあらわれる時代でした.たとえば,ピストンなどは自分の手で修正をして組む人がほとんどでした。ギアの/てックラッシュ量も同様です。だから整備というよりもっともっとハイレベルなものが必要だった.

【司会】 なるほど,マシンの分解,組み上げには職人的な技術が必要だったわけですね.
【山中】 ピストンなんか,我々はミクロンぐらいの差を職人のように体でおぼえていて,それが実際わかった.今もその感覚は忘れてはいません・現代は計器で読むようになってしまいましたが,当時はぜんぜん違っていたのです・エンジン音も,走ってくる音でどこが悪いかほとんど判断していた・それには全神経を集中して音を開き比べることが必要で,そこまでいくにはとにかく理論と経験をつまなければできませんでした.また,ウォーミングアップの時などは他のマシンの音も入ってくるので,自分のマシンの音だけを聞きだすのは特にたいへんでしたね.

【司会】 山中さんは125ccのご担当だったそうですが,5気筒のマシンは2万回転以上もまわる高回転エンジンだったので非常に苦労なさったのでは.
【山中】125ccの5気筒ですから基本的にはものすごく各部品とも小さいわけです(注,ボア・ストロークは35.5mm×25.14mmで35mmフィルムケースの約1/2くらいである)それを頭でおばえたとおりの方法ではとても2万回転もまわるエンジンには調整できません.バルブのすり合わせ方もレースがどれくらいの距離を走るかによって完全にわけていました.エンジン,車体は小さな一つ一つの部品でできています.だからそれをパーフェクトに組み上げて,その最大限の力をだすことが,メカニックの目的でしたね.
 その意味でも秋鹿監督を中心とした,各メンバーのチームワークが良くとれていた.その中で自分の持ち味をだしながらお互いを高めていく努力を続けられて,私たちはたいへん良い勉強の場になりました.
【秋鹿】 あの時代の方が今よりみんな一人一人がプロフェッショナルな仕事をしていましたね.
【全員】 本当にそうですね.
【永島】 僕もそう思っています.ポートの加工から組みつけなどの作業は,今のように分業されたものではまったくなかったのです.すべて自分で行なった.

【司会】 個人の責任がかなり重かったわけですね.
【秋鹿】 もちろん,いそがしい時には,お互いのマシンを見ることもしました.いわゆるメインとして,山中君は125cc,永島君は250ccというふうに,責任区分をわけていたわけです.
【山中】 私は,最初大変なことをやっているなあと見ていたわけです.そうしたら急に「おまえもヨーロッパへ行け」ということになってそれからが大変でした。でもホンダが好きで,メカが好きで、人に負けるかというハングリー精神は人一倍強かったので,それをのりこえていけた。おそらくここにいる他のメンバ−も同じだったと思います.
【秋鹿】 そのとおりだね.
【山中】 技術の世界というものは,自分で高めていくものです。レースでもマシンの最大限の性能がだせた時に勝てる.しかし,それはどうすれば良いのかだれも教えてはくれません.どちらかといえば,それは自分自身でわかっていて,他人には教えたくないものですからね.でも,もちろん今は教えてますよ(笑).
【鈴木】 僕もタイヤ交換以外はすべてやっていました。タイヤだけはエイボン自身がやっていた(笑)。
 秋鹿さんは監督の仕事の他にタイムキーバーもやっていましたよね。
【秋鹿】 そう,各マシンの何人もの記録を私がとっていたし、私以外とる人がい
なかった.
【山中】 秋鹿さんは監督として厳しかったけれど,その厳しさのおかげで,私たちも懸命に努力して,結果的に世界を制覇することができたんですね。
【永島】 私たちは秋鹿監督を絶対的に信頼していましたからね。

【司会】 今までのお話しを聞かせていただいて,秋鹿監督を中心として,チームワークと不屈の努力が,数多くの勝利をホンダにもたらせたことになったのだということが良くわかりました.ところで,ライダーについてなのですが,みんな外人でしたけれど.
【秋鹿】 私自身,そう英語は達者ではありませんでしたが,それでもけっこう連中とはうまくコミュニケーションがとれていました。
【山中】 技術の世界では通じるものなのです・むこうがマシンの調子について話す,私にはカタコトしかわからない。でも言いたいことはだいたいわかる。そして音とか,たとえばプラグの燃焼状態を見て悪い所を直してライダーに乗ってもらえば,「OK」と返事が返ってくるというわけです。だからメカニックとライダーは夫婦のような関係でした。

【司会】 コースについてなのですが,写真で見るとあまり良い状態には見えないのですが.
【山中】 そうです,全体に良くなかったですね。
【鈴木】 イマトラなどはコースの間に踏切があるほどです。
【秋鹿】 ただ,当時タイヤもほとんどのマシンがエイボンを使用していて,タイヤの性能差というのはあまり関係ありませんでしたね。

【司会】 プラクティスの時間は十分取れたのですか?
【秋鹿】 このころのレースは公道を使用するものがほとんどでしたから,ほとんどぶっつけ本番でした.マン島は2週間ぐらいありましたが,他はだいたい二日くらい,だから短時間できちっと整備するスピードも大切でした.
【山中】 1966年のことですけれども,フィンランドのイマトラで125ccが最後まで調子がでないことがあって,時間ほどんどんなくなってきて,今だからお話しますが,秋鹿監督には内緒で,自らマシンに乗りこんで,死ぬ思いでコースを走り,セッティングしたこともありました.
 その翌日のレースは,私も3年間でもっとも印象に残るレースになったのですけれども,ものすごくハードなレースになりました.ヤマハのP・リードと,ホンダのL・タベリが,カウルをぶっつけあいながら走り,とうとうそのままゴールに飛び込んできた.判定はヤマハのP・リードになってしまいましたけれど,タベリは最後まで納得していなかった.
【秋鹿】 記録を見るとたしかに56分40秒6と両者ともタイム差がないね.

【司会】 その他のクラスはどうだったのですか?
【秋鹿】 500ccは当初ジム・レッドマン用にスタートしました.しかしベルギーでケガをしてしまい,急遽,マイクにかえたのでうまくポイントがとれませんでした.
 ジムというのは,しなるような車体を乗りこなすタイプで,マイク・へイルウッドは剛性感の高いマシンを好む.つまり乗り方がまるで違っていたわけです.だから車体を改修してスポークの組みかえや,ダウンチューブの補強など,苦労しました.

【司会】 馬力は十分だったのに非常に残念でしたね.
【秋鹿】 だけど,1968年もレースを続けていれば,500ccも6気筒になる予定で,計画もあったのです.

【司会】 レース活動の休止は,レギュレーションの変更が理由ですか?
【秋鹿】 それは1969年からであまり関係ありません.やはり,1966年に5クラス制覇をしたことが大きかった.あの年は会社の方針で,日本GPは富士スピードウェイのバンクを使用するということでボイコットしましたが,出場していれば個人タイトルも獲れたはずです.1967年は一応の目的を果たしたので,50ccと125ccはカットしてしまいました.

【司会】 50ccは,かなり苦戦していた?
【秋鹿】 たしかに単気筒だった当初は,ヨーロッパ勢が強くて,とくにグライドラーなどの2サイクルの方が速かった.それでこちらも改良をつづけた.
 ミッションなどを翌週のレースまでに,設計者からみんなで徹夜して作って,組んでもっていく,エンジン本体の時なんかリュックサックにいれて運んでいた(笑)。そんな苦労もあって,50ccは2気筒になってからは,戦闘力がでて勝ちはじめた.
 その頃,驚いたことがあります,スズキは2サイクルエンジンだったので,私たちは絶対軽いと思っていた.ところがどこかのパドックでスズキのマシンで持ち上げたらこれがえらく重かった(笑).うちのマシンの方が,4サイクルなのに軽かったのです.

【司会】 ホンダは,小排気量であれば,2サイクルの方が有利であるところへ4サイクルDOHCで戦ってきたことにすばらしさがあると思いますが.
【秋鹿】 もともとうち(ホンダ)は4サイクルでしたからね.でも後半戦の,1966〜1967年は,単純に性能からいえば,圧倒的にヤマハとかスズキの方が上だったと思います。ただそれが現場で発揮できなかった.2サイクルは技術的に完成されていなかったのでしょう。ピストンが焼き付くとか,クラッチがバラバラになつてしまうなど,2サイクルの方がトラブルほ多かった.
【永島】 そう,たしかに多かった.
【秋鹿】 レースでも2サイクルを追っかけること,つまり捕まえることができれば、必ず向こうが先につぶれていって勝てた.そうして後半は勝ち抜いていきました.
【山中】1964年の時の話ですが,125ccがオーバーランさせて,バルブが当たっていたことがありました。パワーはどんどん上がっていくのだけれど,いっこうに速くならない。私がカーブのところで走っているのを見るとタベリがすごいエンジンブレーキをかけるわけです.4サイクルですから,それで原因がわかつて当たらないように調整したらいきなり2位に入った.1965年からは,それを毎回調整するようにしたら確実に勝てるマシンになった・エンジンを22000rpmぐらいまわすわけですから,すこしのタッチがパワーに影響していたのですけれど,そういう努力が差になっていたのでしょう.

【司会】 やはりかなりシビアな世界ですね.
【山中】 だけど,2サイクルのメカニックがうらやましい時もありましたよ.4サイクルはヘッドまわりがありますから,パーフェクトに組み込むとなると時間と手間がかかる.

【司会】 しかし,結果として技術は急激に進歩したわけですね.当時レースでのライバルは,やはりヤマハだったのですか?
【秋鹿】 いえ,それはクラスによっても違っていて,スズキの場合もあるし,MVの場合もあった.ホンダ対他メーカーというのが,適切でしょう.
【永島】 そういえば,マン島でホンダが他メーカーをおさえて勝ったのはうれしかったですね.

【司会】 マン島TTレースというのは,やはり有名だったからですか?
【秋鹿】 ホンダにとっては特別の意味があったわけですね.他のレースに勝つよりマン島TTで勝った方が喜びは何倍も大きかった.
 ホンダのデビューがマン島だったからもあると思いますが‥・‥・.マン島だけはどうしても負けたくない気持ちはメンバーの中でも特に強かったからでしょう。

【司会】 年間10戦以上のグランプリレースに出場していたわけですから,ヨーロッパを中心に移動は大変だったのでは?
【鈴木】 転戦の距離も今と違って,3倍くらい多かった.一日の走る距離は少なくて300km,多いときで600kmは走りました.高速道路がなかった時代ですからね。
【秋鹿】 あの頃は,あったのはドイツだけだったね.
【鈴木】 5台ぐらいのキャラバンで移動するわけですから大変ですよ.
【秋鹿】 トラックの性能も悪かったし,専任の運転手がいるわけではないので自分たちで運転するわけです.例えばオランダ・スペインに1,500kmぐらい走らなければならなかった.
【山中】1から10まで自分たちでやっていた(笑).
【鈴木】 転戦の運転までやっていたのでいろんなこともありましたね.
【山中】 オペルのトラックなんかファンベルトが切れたり,新車なのにホイル・ナットがゆるんでいたり恐い思いもしました.ヨーロッパの車はすごいと思っていたので以外でした.だからトラックの整備もやっていた(笑).
【大城】 私が最後尾を走っていて,フランスでエンストしてしまい,本当に困ったこと
もあったなあ.
【山中】 でも,ヨーロッパの標識は非常に進んでいたのでわかりやすかったね.ちょうどその頃,日本の警察の幹部の方がオランダに来て,視察していかれたことを聞いたことがあります.その後,日本にも矢印の標識が少しずつ付くようになったようです.

【司会】 レースに勝った時の賞金などはどのようにしていたのですか?
【秋鹿】 もちろん全額,ライダーのものでした.
【山中】 賞金でなく,賞品をもらう時があるでしょう,そういう時ほメカニックにくれたりしていました,たとえば陶器とかね.
【鈴木】 私もけっこうもらいました.
【山中】 マイク・へイルウッドは特に気前が良かった(笑).

【司会】 レースを実際体験して思い出に残ったことなど,最後にお聞かせください。
【鈴木】 私は,1966年,マン島のTTレースでマイク・へイルウッドの350ccクラスのメカとして参戦したのですけれど,スタート直後エンジントラブルでリタイアしたのは今でも苦い思い出として残っています.でも,シーズン終了前のアルスターGPでは早くもチャンピオンを決めてくれて,良い思い出として残っています.
【山中】 私は前にお話したように,1964年〜1966年に125ccのメカを担当していたので!やっばり1964年に125ccでメーカーチャンピオンが獲れたことですね.ライダーはルイジ・タベリでした.あとは1966年に5クラスでホンダがチャンピオンになったことが,最も良い思い出です.
【永島】 250ccを担当していた私が特にうれしかったことは,1965年にメカニックとして参画し、始めてマン島TTレースで勝った時です.翌年の1966年には,初戦からM・へイルウッドが,7戦全勝して,チャンピオンが決ったことも良い思い出に残っています.
【大城】 僕は,マイク・へイルウッド,ジム・レッドマンの乗る500ccを担当していましたが,レースを通じ人間とのふれあいの素晴らしさを体験できたことが,本当に良かったと思っています.

【司会】 この度は,貴重な素晴らしいお話,ありがとうございました.


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【最後列】大野・Redman・Hailwood・Graham・秋鹿・ノビー・本田
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【最前列】高梨・大城・鈴木・倉地
マン島ホテル屋上にて(1966年)