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250cc エントリ−
ゼッケンNo エントリ−ライダ−名 マシン 備考
Perris スズキ  
Schneider スズキ  
14 Anderson スズキ J.Ahearnが出場
31 (未定) スズキ Hailwood用に申し込み
 
125cc エントリ−
ゼッケンNo エントリ−ライダ−名 マシン 備考
越野晴雄 スズキ 不出場
Perris スズキ  
10 Schneider スズキ  
12 Anderson スズキ  
16 (未定) スズキ Hailwood用に申し込み

(5)待望の竜洋テストコ−スの完成


 1964年12月9日に、待望の「竜洋テストコ−ス」が完成した。1962年秋の「鈴鹿サ−キット」の竣工以来、随分「鈴鹿通い」をして、テストをしたが、今後これから解放されることになった。浜松〜鈴鹿間は約150kmで高速道路は勿論ない時代であり、部品運搬のため、徹夜で浜松本社へ往復をした苦い思い出もあったが・・。

竜洋テストコースの変遷(航空写真)はこちら

 


5月30日〜6月6日 公式練習
6月 8日 サイドカ−&250レ−ス
6月10日 125&350レ−ス
6月12日 50&500レ−ス


  また、125・250のエントリ−は、下記のようであった。125の『16』、250の『31』が、Hailwood用に申し込んだ『幻となったゼッケンNo』である。
日本GP250に水冷2気筒で参加した遠来の客 東ドイツのMZ
日本GP250でMZ水冷2気筒で
  5位となったHailwood
5月のマレ−シアGPで
重傷を負い日本GPに復帰
をかけた伊藤史朗。この
250を最後に姿を消した
イタリアGPで初登場の
 ホンダ250-6気筒
 第10戦イタリアGPホンダ6気筒がデビュ−した。公式練習タイムは、6気筒Redmanと2気筒Readは同タイム。レ−スは中盤過ぎまで二人の息詰まる熱戦が続いたが、6気筒のスピ−ドがややにぶり、優勝はRead、2位Duff、3位Redman。ここでRead(ヤマハ)の個人選手権獲得が決定した。スズキは不参加。
 最終第11戦日本GPはホンダ6気筒のRedmanが優勝、Readは2位だったが後半R、HailwoodがMZで出場し序盤健闘したがピットインしたりで5位。久々に顔を見せたヤマハ 伊藤史朗は1周目R。このレ−スを最後に天才ライダ−伊藤史朗は、レ−ス界から、姿を消してしまった。スズキはイタリアGPに続き不参加。
フランスGP250表彰台:
Taveri・Read・Schneider
 第3戦のフランスGPは優勝Read、2位Taveri、3位Schneider(レ−スタイムはともかく、1961年に250ccに挑戦して以来、初の表彰台である。エンジンを分解してみると4番ピストンが焼付き、破損していた)、Anderson・PerrisはプラグカブリでR。
 第4戦TTレ−スは優勝Redman、2位にMZのShepherd。Perrisはスタ−ト間もなくピストン焼付R。Schneiderは1周目中間地点のSulbyではRedman・Readに続き3位だったが、ヘア−ピンで転倒し1周の順位は7位、2周目セカンドギア破損・チエン切れでR。Andersonに代わって出場のJ.Ahearnは1、2周7位だったが、3周目ピストン焼付Rで全滅。
 第5戦オランダGPは最初から最後までRedmanとReadのもの凄い競り合いが続き「鼻の差」で優勝Redman、2位Read。Schneiderは4位だったが6周目ピストン焼付R。Perrisは6位だったがプラグカブリで5周でR。Ahearnはスタ−ト悪く、2周目ピストン焼付RでTTレ−スに続き全滅。
 第6戦ベルギ−GPの公式練習での順位はRead・Schneider・Duff(ヤマハ)・Shepherd(MZ)・Redman・Perrisの順。Schneiderの話では、「Francorchampsのような高速コ−スなら、ミッションがもう1速あればヤマハに勝てるかも?。ホンダのスピ−ドは大分遅い」とのこと。レ−スは、本命のReadが1周目リタイアし、Duffの独走優勝、2位Redman、3位Shepherd。Schneiderは1周目ピストン焼付R。Perrisは4周目4位でピストン焼付R。Ahearnは公式練習でピストン破損によりクランクケ−スを壊し、出場できなかった。
 第7戦西ドイツGPは優勝Read、2位Redman、3位Duff。Schneiderは2周目ピストン焼付R。(本レ−スより「RZ64-U型」に変更となった)
 第8戦東ドイツGPには昨年に続きHailwoodがMZで出場した。公式練習タイムはHailwood(MZ)・Schneider・Redman・Readの順。レ−スは、2周終わってHailwoodがRead・Redmanを大きく引き離し、昨年に続きMZによるHailwoodの優勝の再現かと思われたが、3周目Hailwoodは転倒R。優勝はRead、僅差で2位Redman。Schneiderはスタ−ト悪く、1周は7位、2周は5位、3周は4位、その後プラグカブリ気味となり、6周でR。
 第9戦アルスタ−GPの公式練習タイムはRead・Schneider・Redmanの順。優勝はRead、2位Redman。Schneiderは3位争いに加わっていたが、プラグカブリでピットインし6位。なお、ここでヤマハのメ−カ−選手権獲得が決定した。ヤマハのメ−カ−選手権獲得は初めてのことであり、ホンダは1961年〜1963年保持していたチャンピオンの座を明け渡した。
TTレ−ス250のAhearn
 第1戦アメリカGPはホンダ不参加、ヤマハのRead・伊藤史朗はR、SchneiderはミッショントラブルでR、Perrisは公式練習で転倒し足骨折、優勝はMZのShepherd。
 第2戦スペインGPは優勝はベネリのProvini、ホンダのRedman・粕谷勇が2・4位、ヤマハのReadが3位、5位にAnderson、8位にSchneider、PerrisはR。
 昨1963年最後の日本GPでデビュ−した「水冷スクエア4気筒」で全レ−スに挑戦するよう準備した。第1戦アメリカGPは「RZ63-U」で出場したが、第2戦スペインGPからは、「RZ63-U」を改良した「RZ64」で参加した。主な改良点は繰安性の改良、重量の軽減、出力の向上等であった。なお、第7戦西ドイツGP以降は、更に「RZ64-U」に変更されたが、どこが変更されたのだったか記憶にないが、大幅な変更はなかったと思う。
(3)250ccは「スクエア 4」で挑戦したが!
 かくして、1964年の250はヤマハの初の両タイトル獲得(個人はRead)で終了した。スズキ「水冷スクエア4気筒」による選手権初挑戦は全く無惨な結果に終わった。出走台数18台、内完走したのはたったの5台のみで、表彰台に登ったのはフランスGPでの3位が一度のみという惨めな結果だった。
(4)幻に終わったHailwoodのTTレ−ス125・250ccの出場

 1964年のHailwoodは、MVと契約し350・500ccで選手権レ−スに出場しており、軽量級の125・250ccには出場していなかった。
 Hailwoodと言うと、MV・ホンダを思い浮かべ、4ストロ−クマシンのライダ−としてのイメ−ジを強く持つ人々が多いと思う。しかし彼は軽量の2ストロ−クマシンでも大きな実績を上げているのである。特にスポット的に2ストロ−クマシンに乗っても非常に好成績を上げていることが注目される。主な成績を記載してみる。1961年にはEhrlich(エ−リッヒ)博士の設計によるEMC125でスペインGP4位、フランスGP4位。1962年には再びEMC125でスペインGP4位、オランダGP5位、ベルギ−GP4位、西ドイツGP3位。またMZ250で東ドイツGP2位。1963年にはMZ250で東ドイツGP優勝を果たしている。彼はDegnerにも匹敵する2ストロ−クマシンライダ−なのである。

・HailwoodをTTレ−ス125・250に乗せる交渉を進めていることを知ったのは、スペインGPが終わった翌日の5月11日だった。本社から次のような電報をBarcelonaで受け取った。『マン島の125・250エントリ−に各1名を追加した。Hailwoodになる予定。外人ライダ−たちに了解をとってくれ。Hailwoodとの連絡はSGBを通じて行う』。(SGBとはイギリスの販売代理店Suzuki Great Britainのこと)

・5月17日のフランスGPを終え、パリ経由、ベ−スキャンプを置いていたオランダのBadhoevedorp(バドフブド−)に戻った翌日の5月21日、本社から電話が入った。『Hailwoodから未だOKの返事は来ていない。契約金はレ−スチ−ムに一任する』とのこと。
 BadhoevedorpはAmsterdam郊外で空港にも近い小さな町で、マシン・補給部品の受領にも便利で、1963年〜1967年の間、この町のHotel DE Waterwolfをヨ−ロッパ転戦の基地としていた。

・5月22日本社から次ぎのテレックスが入る。『Hailwoodから未だOKの返事がないから、積極的に手を打て』

・早速5月22日ZandvoortのホテルにHailwoodを訪問する(ZandvoortでF1レ−スがありHailwoodが滞在していた。Badhoevedorpからは2時間?程度の距離)。『25日ミラノでMVのAgusta伯爵に会うので了解を求める。スズキに乗りたいが伯爵の同意を得るまでは返事できない。』とのことだった。

・5月26日本社より『HailwoodがOKの場合、契約金は○万円まで』との連絡が入る。

・5月28日アムステルダムから貨物のチャ−タ−機でマン島入り。(TTレ−ス公式練習は30日から始まった)

・5月29日、マン島入りしたHailwoodからの回答は、『数回Agusta伯爵に了解を求めたが、同意を得られなかった。明日もう一度電話して了解を求めてみる』とのこと。

・5月31日、Hailwoodより最終の回答があった。『どうしてもAgusta伯爵の了解が得られないから、TTレ−スにスズキに乗ることは諦める』。

 以上のような経緯で、「HailwoodのTTレ−ス125・250の出場」は幻と消えた。Hailwoodがスズキマシンでどのような走りを見せるのか、また繰安性が良くないとされた「スクエア4のRZ64」をどのように乗りこなすか、一度は乗せてみたかったライダ−だったが、実に残念だった。

 TTレ−スのスケジュ−ルは、下記のようであったが、6月10日の350ccレ−スにHailwoodは扁桃腺による発熱のため出場できなかった(6月12日の500ccには優勝したが)。たとえスズキと契約が出来ていたとしても、125はレ−スに出場できなかっただろうし、250はどうだっただろうか?。