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1周約60kmの公道を
使用したMountain Course
(1)TTレ−ス参加の決定と準備

1959年8月の第3回浅間火山レ−スが終わり、レ−ス用エンジンの性能向上ということで、9月上旬には、浅間レ−ス出場のRBエンジンを2つ並べたREエンジン(250cc・2気筒・56φ×50.5)の設計、次には10月初旬に、RFXエンジン(125cc・2気筒・ 44φ×41)の開発に着手、続いて11月中旬には、RDXエンジン(125cc・単気筒のショ−トストロ−クエンジン・60φ×44。浅間レ−ス出場のRBエンジンは56φ×51)の試作手配をしていた。
 TTレ−ス参加が決定されたのは、1959年の年末も近い頃だ。ホンダの故本田宗一郎社長と、スズキの故鈴木俊三社長が、同じ列車に乗り合わせ、本田社長が「スズキさんのレ−サ−も、よく走るから、TTレ−スに出てみたら・・」と鈴木社長に話されたとのこと。これで、出場が決まったという「伝説」になっている。
 12月27日の企画会議で正式に来年のTTレ−ス出場が決定された。回転馬力をかせごうとエンジンは、試作中のRFXをベ−スとした、2気筒(空冷・44φ×41・ピストンバルブ)に決め、早速 RT60の設計にとりかかった。1960年のお正月は元旦だけの休みだった。これで6月のTTレ−スに出場すると言うのだから、今考えると全く無茶苦茶な話である。
 1月下旬にはRFXエンジンが出来、先行テストが始まる。しかし走行テストをする場所もなく、やむなく、浜松の西方の国道一号線で、新居町〜汐見坂の間に比較的長い直線路があるからと、早朝に走行テストに出かけたりもした。けたたましい排気音で目を覚ました近隣の人々も集まってきた。騒音公害などという言葉もない良き時代だった。
 一方、2月1日には丸山善九研究部長とシェル石油の松宮昭氏がマン島に向かい、1周60kmのMountainコースすべてを8mmフィルムで撮影したり、選手団の宿舎を選定したり、タイヤ・チエン・プラグなどの調査をしたりして、2月27日に帰国した。松宮氏はヨ−ロッパのレ−ス事情に詳しく、まもなくレ−ス部門のマネ−ジャ−として、スズキに入社することになった。
[1960年マン島TTレ−ス初出場]
米津浜テストコースで
 Duke を囲んで
神谷安則
中野広之
松本聡男(ライダ−)
市野三千雄(ライダ−)
伊藤光夫(ライダ−)
清水正尚
岡野武治
松本聡男
市野三千雄
伊藤光夫
【TTレ−ス参加のメンバ−】
(2)いよいよ マン島へ
西ドイツGP250cc3位で
日本人初の表彰台に登った
田中健二郎
 TTレ−ス初出場のホンダ250ccはBrown・北野元・谷口尚己が4・5・6位という結果であったが、125ccとともに優勝を争うには、「もう一息」というよりも、「まだまだ」という感じをうけたが・・。その後の、西ドイツGP250ccで田中健二郎が3位に入賞し、日本人初の表彰台にのぼった。しかし、次のアルスターGP125ccで無念にも転倒し骨折した。そして、ホンダは、翌1961年には、王者MVが軽量級から引退したものの、MVの記録を次々に打ち破って、125・250ccの両タイトルを獲得することになる。なお、伊藤史朗が、BMWでフランスGP500ccに初出場し、6位に入賞した。オランダ・ベルギ−GPにも出場したが、ともに10位だった。 
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羽田着の左より市野・清水
伊藤・松本・筆者・神谷
上より、レ−ス中の
松本・市野・Fay
レ−ス前、左より松本・Fay・
清水・市野・神谷・筆者
(3)公式練習からレ−スへ

 いよいよ6月4日公式練習が始まる。この一周目、伊藤光夫はDegnerの後ろについて走り、コ−スどりの勉強をしようとしたが、山手でDegnerが転倒し、伊藤もこれに巻き込まれて転倒、二人枕を並べて入院することになった。伊藤に替わり、シェル石油の紹介で R.Fayさんが、乗ることになった。ついで公式練習第2日目の6月6日には、同宿のRobbさんも転倒し、入院してしまった。
 公式練習が始まり、他車との性能の格差をまざまざと知らされることになった。MVやMZとは、最高速が30キロくらい違うのだ。「世界の壁は・・・」、「井の中の蛙・・・・」とは、このようなことを言うのかと、思い知らされた。マシントラブルとしては、幸い、ピストン溶けが一度、ピストントップリングの膠着が数度発生した程度で、まあまあの状態だった。直線だけの「米津浜テストコ−ス」の、しかも「短期間の耐久テスト」だけでのTTレ−ス挑戦だったが、「天がスズキに味方してくれた」としか、今となると考えられない。だが、この「甘さ」が、「翌1961年の苦悩」を生み出したのかも知れないとも思う。公式練習の結果はMVが26分台、東独の2サイクルマシンMZ及びDucatiのHailwoodが27分台、ホンダが29分台、スズキは32分台だった。
 6月13日、いよいよレ−ス当日だ。上位入賞を願うのは無理な話。全車の無事完走のみを祈る。AM10時スタ−ト。スタ−トは、ゼッケンナンバ−順に、2台づつ、10秒間隔である。スズキ車のゼッケンナンバ−は、伊藤に替わるR.Fayさんが20番、松本が24番、市野が25番である。60キロ×3周のレ−スは全く長く感じた。順位・タイムはともかく、願い通り全車とも無事完走できた。アルミ鋳物のクロムメッキシリンダ−に心から感謝したい気持ちだった。レ−ス結果はMVのUbbiali・Hocking・Taveriが1・2・3位を独占、MZのHempleman・R.Andersonが4・5位、Hondaの谷口尚己・鈴木義一・島崎貞夫・田中禎助・Phillisが6〜10位、Suzukiの松本聡男・市野三千雄・Fayは15・16・18位だった。
 TTレ−スでは、優勝者のレ−スタイムの112.5%(9/8)までの完走者にシルバ−レプリカ、120%(6/5)までに銅レプリカが与えられるが、松本聡男が何とか銅レプリカを貰うことが出来た。
 350・500ccレ−スを見ることなく、15日にマン島を離れロンドンへ、そして17日にロンドン発帰国の途についたが、憂鬱な機内だった。「来年もGPレ−スに挑戦することになるんだろうか?・・世界のトップレベルとの性能差はどうすれば解決出来るんだろう?」、「こんな成績を持ち帰って、日本ではどんな顔で迎えてくれるんだろう?」・・・と。しかし、羽田での出迎え、東京での歓迎会、浜松本社での歓迎そしてみんなの笑顔には、驚いた。・・「初参加で全車完走、そして銅レプリカの受賞」と・・。世界のレベル、世界の壁の高さを身をもって感じてきた私たち選手団にとっては、非常に複雑な心境であった。
(一番右が、1930年TT
レ−ス出場の多田健蔵さん)
義一ちゃんは
ソフトより
おしゃべり
ソフトは一休み
伊藤・市野・筆者・
神谷・北野
ホンダとソフト
ボ−ル風景
ホンダとソフトボ−ル:
松本・筆者・谷口
ホンダの宿舎訪問:
真ん中が筆者、右に
河島と谷口
ホンダの宿舎訪問:
谷口、将棋中の
松本と鈴木義一
マン島新聞にのった
スズキチ−ム
マン島の少女と
伊藤と筆者
Hotelの庭でくつろぐDegner
Hotelの庭でくつろぐチ−ム
ホンダと一緒にBOACで
羽田出発ロンドンへ
日本選手団として
ホンダと合同壮行会
(上の2枚)
浜松駅ホ−ムにて:
左より鈴木俊三社長・岡野・伊藤
・筆者・松本・神谷・市野・清水
 ホンダチ−ム、スズキチ−ムで、日本選手団を結成し、団長は小型自動車工業会の立松さん。5月10日、東京丸の内会館で壮行会を開催。翌11日夜BOAC機でロンドンへ。当時はヨ−ロッパへの直行便とか、アンカレッジ経由の北回り線もなく、香港〜バンコック〜デリ−〜カラチ〜ベイル−ト〜フランクフルト〜ロンドンと23時間の長旅だった。ロンドンに一泊し、13日空路マンチェスタ−経由マン島着。
 宿舎は、ダグラスの町並み、港がよく見える高台のファンレイ・ホテル(Fernleigh Private Hotel)である。練習車として送っておいたSBB(150cc)で、伊藤光夫・市野三千雄・松本聡男のライダ−達は一周60キロのマウンティンコ−スを覚えるべく、毎日走る。16日Degner(MZ)、20日Taveri(MV)、6月2日Robbら有名ライダ−もホテルに到着し、同宿であった。今年から全てのレ−スが、Mountain Courseで開催されるが、昨年まで125・250・サイドカ−のレ−スは、Mountain Courseでなく、Clypse Course(Mountain Courseをほんの僅か使った1周10.75哩の小さなコ−ス)で開催されていたため、軽量級に出場していた彼等にとっても、Mountain Courseは、初めてなのだ。昨年から出場のホンダさんにとっても、勿論初めてだ。Taveriもランブレッタのスク−タ−で毎日コ−スを回っていた。Degnerは、我々の質問にも、いろいろ答えてくれた。このDegnerが、2年後、我々のスズキチ−ムに加入することになるとは考えてもみなかった。ホンダチ−ムは、ナ−スリ−・ホテル(Nursery Hotel)を宿舎としており、我々がナ−スリ−ホテルを訪問したり、我々のホテルにホンダチ−ムが遊びに来たり、牧場でソフトボ−ルの試合をしたりもして、友好を温めたものだ。ライダ−達は、スポ−ツ万能選手で、当然ソフトボ−ルなどは上手なものと思っていたが、案外そうでもなく・・・・失礼。
Hotelの庭で筆者
Hotelの庭よりダグラスの港を
Fernlrigh Hotel
マン島ダグラス
RT60











   米津浜テストコ−ス:
左が筆者、次が松宮、Duke の
    後は伊藤光夫
ホンダの荒川テストコ−スで:
前列左より筆者・岡野・清水・
稲垣、後列左より神谷・松本
一人おいて伊藤・鈴木清一
 テストする舗装路もない我々は、ホンダさんにお願いし、「荒川テストコ−ス」をお借りすることになり出かけて行った。宿の手配から、お昼の弁当まで、ホンダさんがやってくれた。テストコ−スには、スピ−ド測定のカウンタ−も設置してくれた。テスト中に、車体のどこかが折れ(ステップだったかな?)白子の研究所で溶接をして貰ったりもした。夜には、河島喜好課長(後の社長)や飯田佳孝さんが宿に来てくれ、レ−サ−や部品の発送・通関などのノウハウを話してくれたりした。なにしろ、随分お世話になった。
 3月20日?には、RT60が完成。23日には、突貫工事で建設を進めていた「米津浜テストコ−ス」が完成し、やっと走行テストが出来るようになった。このコ−スは、ホンダさんの「荒川テストコ−ス」と同じ規模の直線(約2q)のテストコ−スであるが、一般の畑の中に建設したため、お百姓さんや、リヤカ−が時々コ−スを横断し、大勢の見張りをつける必要があり、危険なテストコ−スだった。1961年5月2日には、テストライダ−内藤隆寿くんが死亡する事故が発生してしまった。米津浜テストコースの位置はこちらをご覧ください。
 4月には、マン島在住の往年の名ライダ−「デュ−ク氏(Duke)」を招聘し、RT60の試乗をしてもらったり、いろいろとお話を伺ったりもした。彼は、1951・1952年の350ccチャンピオン、1951・1953・1954・1955年の500ccチャンピオンである。その時のデュ−ク氏への質問事項が日記帳に残っているが、今となると、全く幼稚で、ピント外れなものが多く、恥ずかしい。舗装路でのロ−ドレ−スのこと、まして世界選手権レ−スのことなど全く知らなかったのだから、仕方なかったと思う。
 マシンの方は、ピストンの焼き付きに悩まされ、シリンダ−を「鋳鉄」から「アルミ鋳物内面にクロムメッキしたもの」に変えることにより、なんとか耐久性もつき、やっとレ−サ−・部品の発送に間に合わせることが出来た。全く、綱渡り的なTTレ−ス初参加だった。
 なお、RT60の開発実験でエギゾウストパイプ形状が性能に大きく影響することがわかった。このため、テールパイプ長さやマフラー後部形状がわからないように鉄板で覆って溶接したものだった。すなわち、形状をカムフラージュしていたのである。