『1998年4月号 Big Machine』に掲載された、清水正尚・伊藤光夫の対談の記事から
第3回浅間火山レースに関するものを掲載します。

社旗を取り出すことのなかった1959年・浅間

清水正尚:1955年の第1回浅間レース終了後スズキは当分、実用車の開発に専念すると、レースからの引退声明を出したのだが、「そうこうしているうちにまた、浅間へ行こうとなりその当時、岡野武治さんが入社されて、レース担当の研究第3課ができて、丸山さんが研究部長になられて岡野さんが次長で、研究第3課の課長を兼務されて、SVをベースにして1959年第3回浅間レースのRBに発展させたんです」
伊藤光夫:「1959年は完成検査課から研究第3課へ移籍して、5月から8月までの3か月間浅間につめたんです」
清水正尚:「非常にチームワークはよかった。朝は入念なトレーニングをやってから走行練習をやって、勝てるわけだったけどね、いまだに悔しいね。
 ホンダの河島監督(2代目・本田技研工業社長)がレース前に、『清水さん、優勝だなっ、帰ったらおごってくれよ』っていわれるくらいタイムもよかったし、勝てると思っていたから、優勝したときに掲げる社旗を懐に入れて行ったんです。
 そしたら1周目にみっちゃん(伊藤光夫)が私を見て、いけるって合図をするんですよ。私もこりゃもう谷口尚巳(ホンダのマン島帰りのエースライダーで、RC142で出場)を負かしたと喜んでいたら、みっちゃんが頭に出て回って来るでしょ、よし、しめた、と思ったら次の周は来ないんですよ」
伊藤光夫:「(苦笑いしながら)谷口を抜いて、50Rの先でぬかるみにズボって入って、いきなりフロントをもっていかれちゃったんです。火山灰のコースでぬかるんでいたから、平らに見えても車が通ると沈んじゃうんです」
清水正尚:「浅間は雨のときは練習ができなかったんです。コース(火山灰地を整地した、1周9・351血)が傷むといって。ですから雨は気にはしていたんですが、みんな同じ条件だと思っていたら、ホンダの連中がスタート間近にザワザワ動き出してスプロケットは換えるみし、キャブのセッティングも変えるんです。〕このときはシマツタと思いましたがもう手遅れです。やはり、レース経験の違いでしょうね」と、1955年以降のブランクを指す。

 最高時速を出せるテストコースをもつのは、当時ホンダだけだった。したがってスズキRBのテストはほとんどが浅間で行われた。

清水正尚:「模擬レースをよくやったんです。よ−いっ、ドンでやるんですが、そうすると帰ってこないんですよ。だいたいが・・・・・・(苦笑い)」
伊藤光夫:「ピストンの焼き付きはほとんどなか ったんですが、クランクがもたなかったんです。最終的にはニ−ドルベアリングにして、不安なく回せるようになったんですが・・・」
清水正尚:「設計構造的な問題で、ピンの負荷容量と周速の関係です。爆発力に見合ってピンの折れない、最小径のピンがいいんです。周速も小さいでしょ。太いと速くなり、焼けるんです。初めはそれが、わからなかったのです」
伊藤光夫:「この(浅間)前後は、2ストロークのそのへんが、もっとも開発された時代ですよね」

 タイム的には十分な戦闘力をもちながら、スズキRBは1959年、最後の浅間で予想だにしない敗北を喫し、清水は社旗を取り出すことなく、レースもこれで終わりかと思ったというが、事情は急転した。
 1959年暮れ、東海道線のなかで偶然鈴木俊三社長は本田宗一郎社長と一緒になり、『お宅のレーサーはえらくよく走るじゃないか。マン島に一緒に出れば、日の丸も夢じゃない』と話しかけられて、翌1960年のマン島TTレース出場を、決断したのである。




1959年10月号「モーターサイクリスト」誌の記事より


耐久ウルトラライト(125cc)級レース

北野 元 クラブマン栄冠を獲得


 この日朝から雨。しかし10時近くに漸くやむ。日曜日のこととて観衆はこの頃になってどっと押し寄せる。3万或いは4万ともいわれる。
 本大会最初のメーカー耐久レースである。トップラインアウトコースに招待選手のクラブマン・チャンピオン108北野ベンリイと,T.T・レース6位の覇者107谷口ベンリイが並ぶ。谷口は車両の左に,立っている。
 10時30分スタート。107谷口ベンリイ頭で飛び出す。108北野ツーキック,谷口との差約50m。しかし50Rでは早くも107谷口ベンリイ,108北野ベンリイの順。1周目審判台前は107谷口,105伊藤光夫コレダ、108北野ベンリイと続き・コレダ2サイクル陣の活躍が目ざましい。2周目に入るや105伊藤コレダ50Rで右転倒。9位に落らる。3周,4周ともに107谷口,108北野1,2位変らない。5周目山下りの地点で本命107谷口落車。エンジンストップ。その間に108北野トップを奪い,その駿足少しもおとろえず,他のメーカーレーサーを1K余はなして寄せつけずにゴール。トップでチェック旗をうけ,耐久レース125ccの栄冠はクラブマン招待選手に輝く。104鈴木淳三ベンリイ、3周目6位,8周目ヘアピンで2位につき,猛然と108北野を追ったがついにその差約1Kは短縮できず2位に止まる。この間雲ひくくたれ,浅間の山容は姿を消し,コースでは各車猛然とせり合う。12周日のなかば漸く雲の切れ間に陽がさす。コースは雨で濡れ,埃もたたず,むしろコンデイションは良好といえる状態であった。14周目,ゴールするもの出走車21車のうちわずかに7車。33%の完走率であった。
 入賞4位まではベンリイ。5位に119市野三千雄コレダ,6位に110有川トーハツ,7位106花沢トーハツ。109野地トーハツは14周50R地点まで健斗したがおしくも時間切れとなる。

14周(131.014km)
順位 ゼッケン ライダ−名 年齢 車 名 タイム(分・秒) 平均時速 ベストラップ(分・秒)
1 108 北野 元※ 18 ベンリイSS92 84.10 93.4 5.51
2 104 鈴木淳三 28 ベンリイRC142 84.21 93.2 5.52
3 114 藤井璋美 28 ベンリイRC142 85.33 92.9 5.57
4 121 福田貞夫 25 ベンリイRC142 85.42 91.7 5.56
5 119 市野三千雄 25 スズキ RB 85.49 91.4 5.50
6 110 有川英司 25 トーハツ LD 90.33 87.2 5.58
7 106 花沢 昭 27 トーハツ LD 98.46 79.6 6.12
※はクラブマン招待選手

耐久ライトウエイト(250cc)級レース

ドリーム4気筒レーサー全車完走(島崎貞夫優勝


 午後になって雨はやんだが,高原一帯は濃霧におそわれた。本部席にはレース開始前に,楢橋運輸大臣の顔も見え選手に対する激励があった。このレースには大臣杯が出されている。
 このレースでの圧巻は何といっても来年の英国TTレ−スを目標にして造られたという,ホンダの4サイクルohc 4気筒250ccレーサーにかける期待と興味である。クラブマンレース入賞の招待者は166の増田ドリームと168の野口ヤマハの2人だけ,北野チャンピオンは辞退している。
 スタートは午後2時10分166増田ドリーム出おくれる。他は見事に一斉に飛び出し、’カスミのカーブへ吸い込まれていく。50Rには159鈴木義一、163島崎貞夫、156佐藤幸夫のホンダ4気筒レーサー,続いて168野口種晴クラブマンのヤマハが続く。第2コースはこの順位のまま50mの近差で快走して行く。5位の151大軒ライラックにこれから約500m差と開く。152田中健二郎ホンダは151を抜き5位につく。第2周目審判台前ではさらに168野口ヤマハを交して第4位につき、3周目ではさらに8K地点で,156佐藤も抜いて3位に躍進。4周目に入ると濃霧は100m先の視界をさえぎる。5周目審判台前は159、163、152のホンダ4気筒車陣、つぎに168野口ヤマハがすぎる。益々霧褒は深まる。ヤマハの高周波音はこの霧海をつんざくように響く。7周目50Rでは159、163、152、168の各車は一車身差,接戦である。このとき159鈴木ヘアピンまでの間に3位に落ち、審判台前は163、152、159、168とすぎる。8周目100R地点から右大曲にかけて、168野口ヤマハは159鈴木ホンダを交して3位に食いこむ。159鈴木ホンダは審判台前方でゴーグルを捨てる。すでにこの頃になると1周オクレ,2周オクレがトップ陣に交さくする。9周目になって霧やや晴れる。11周目懸命に168野口ヤマハを追いかけていた159鈴木ホンダは大森カーブでこれをとらえて見事に交し3位につく。ホームストレッチ本部前で6位の168野口ヤマハはピットに入る。故障らしい。12周目は152、163、159の4気筒レーサーと166番クラブマンの増田の各ホンダ車は,他車を相当離して審判台前を通過する。ピットに入った168野口ヤマハついに動かず、1周オクレとなり、野口やむなく車をおりる。16周目のラストラップに入ってトップの163島崎ホンダ一度ヘアピンコーナーでは159鈴木と入れ替わったが、再びホームストレッチでトップを奪い、163島崎、152田中健二郎、159鈴木の各4気筒レーサー,続いて166増田のドリームSSと続々ゴールイン。あとは156佐藤。154の田中髀4気筒レーサーがゴールイン,7位に157長谷川クルーザーが2周オクレで入る。トップクラスの伯仲した息もつかせぬはげしい争覇戦は,ホ
ンダ4気筒レーサーの偉力とともに,観覧者を充分にたのしませた好レースであった。また敗れたりとはいえ,168野口ヤマハの11周までの健闘は,そのカン高い排気音の余韻とともに,レース終了後もなおまぶたから消えない。2時間余にわたるこのレースが終って,当日の入賞者に対する賞品授与式が行われた。

16周(149.716km)
順位 ゼッケン ライダ−名 年齢 車 名 タイム(分・秒) 平均時速 ベストラップ(分・秒)
1 163 島崎貞夫 24 ドリームRC160 89.38 100.4 5.27
2 152 田中健二郎 28 ドリームRC160 89.39 100.4 5.15
3 159 鈴木義一 28 ドリームRC160 89.41 100.0 5.27
4 166 増田悦夫※ 22 ドリームSS 91.18 98.5 5.30
5 156 佐藤幸雄 23 ドリームRC160 91.37 98.0 5.33
6 154 田中禎助 22 ドリームRC160 96.59 93.5 5.47
7 157 長谷川 弘 25 クルーザー SC 101.58 88.5 5.51
8 161 大岳 実 24 クルーザー SC 104.30 86.5 6.21
9 164 今田俊彦 24 クルーザー SC 106.23 84.5 5.41
10 160 松川 稔 23 ライラックLS18R1 114.39 78.4 5.54
11 165 木村 力 28 クルーザー SC 118.20 76.1 6.56
12 151 大石享一 22 ライラックLS18R1 131.70 68.5 5.34
※はクラブマン招待選手

耐久セニア(500cc)、ジュニア(350cc)級レース

伊藤史朗 BMW順当の勝利


 本大会掉尾をかざる耐久レースセニア,ジュニアクラス戦は午後2時40分から開始された。9,351kmコーースを18周迄168.418kmを走破するこのレースは,延々2時間近くを予定されている。254番伊藤史朗BMWは国際レースで車両故障のため脱落しているだけに今日はどうしても勝ちたいレースである。国産の昌和ホスク,メグロを問題なく引き離して18周トップを継続して順当の勝利。それにしてもクラブマンから招待された258高橋国光,257石井,256藤井のBSA各車は健闘2,3,5位を獲得したのは立派である。なかでも終始伊藤史朗BMWに一歩も譲らず吸いつくようにぴたり離れなかった2位の258番高橋国光はみごとなものであった。その差わずかに2秒。251長谷川昌和ホスクはよく力闘4位を得た。この敢闘ぶりは観衆の拍手を以て迎えられている。
 350ccジュニアクラスはクラブ招待の2選手のみである。2周オクレのタイムでゴールした,615野口ヤマハと,伊藤とは互いにお目出とうと肩を抱き合っていた。両選手とも久しくこの勝利から遠ざかっていただけに感懐一しおのものがあったのだろう。

18周(168.418km)
クラス 順位 ゼッケン ライダ−名 年齢 車 名 タイム(分・秒) 平均時速 ベストラップ(分・秒)
350 1 615 野口種晴※ 26 ヤマハ260 109.11 92.6 5.50
2 603 高岡恭元※ 24 ドリーム305 118.24 85.5 5.42
..
500 1 254 伊藤史郎 19 BMW-R50 100.24 100.8 5.10
2 258 高橋国光※ 19 BSA 100.26 100.7 5.10
3 257 石井義男※ 25 BSA 102.27 98.7 5.32
4 251 長谷川 弘 25 ホスク 104.45 96.6 5.28
5 256 藤井 一※ 24 BSA 104.47 96.5 5.32
6 253 今田俊孝 24 ホスク 123.20 82.0 5.33
※はクラブマン招待選手

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RA練習車に跨る伊藤光夫

○斉藤数馬さんのHP「MFP」内に掲載の「ASAMA 2005」です。
2000年8月現在の浅間レースコース跡地の現状写真などが掲載されています。
○夢地蔵さん撮影の1969年4月の浅間テストコース跡地
E
E
「聖地めぐり」の若者たち・
これも関西ナンバ−だった。
お茶をご馳走したら喜んでくれた
コ−スの入り口、建物は「管理事務所」?、
その前にはゲ−トがあった。管理人は何と
言う方だっけ?思い出せない。
1989年5月1日長野旅行の折り、足をのばして、懐かしの「浅間高原自動車テストコ−ス」を30年振りに訪ねて見た。長野から小諸を経て中軽井沢で左折し、「峰の茶屋」へ。先に「鬼押し出し」の見物に。再び「峰の茶屋」まで戻って北上。当然ながら、30年前の火山灰の中に溶岩がアチコチ飛び出ている悪路ではない。やがて右折して、もとのコ−ス入り口へ。中には入れないが、当時の「管理事務所」らしき古ぼけた建物が残っていた。ここから眺める浅間山は当時のままだ。30年前の浅間合宿のときの浅間山の爆発を思い出す。・・・火山灰は凄かったなあ。・・・RBエンジンのコンロッド大端には苦労したなあ。・・・125ccレ−スでの伊藤光夫の転倒、谷口尚巳の転倒。・・・衝撃の250ccホンダ4気筒の出現、これを操る「逆ハン」の田中健二郎、野口種晴の健闘。・・・伊藤史朗と高橋国光のランデビュ−レ−ス。・・・宿の「北軽井沢の地蔵川旅館」はどうなっているかなあ。みんなのアイドルだった旅館の娘さん(勝っちゃん)はどうしているかなあ・・・と、いろんなことが思い出される。持参の きゅうす にお茶を入れ、30分ほどを過ごす。この間に3〜4組のバイクの若者たちが「聖地めぐり」に訪れた。みんな浅間レ−ス後に生まれた様な若者ばかりだった。関西ナンバ−のバイクが多かった記憶だ。最後の人たちにお茶をご馳走したら、非常に喜んでいた。・・・北軽井沢へ行くのは止めて帰路に着く。・・・今となって、何故寄って来なかったのかと大いに後悔しているが・・・。
 年月の経過は早いもので、もう あれから13年だ。                  2002年5月記
懐かしの「浅間高原自動車テストコ−ス」を30年振りに訪ねて

野口種晴
伊藤史朗と
高橋国光
伊藤史朗と
高橋国光の
ランデビュ−
350・500ccクラス

 350・500ccは出場台数が少ないため、同時発走のレ−スとなった。レ−スは500ccのBMWに乗る伊藤史朗とBSAのクラブマン招待選手高橋国光のランデビュ−のレ−スで、優勝は伊藤史朗で終わった。350ccクラスの優勝は、ヤマハ260ccの野口種晴だった。
市野三千雄と
鈴木淳三
伊藤光夫、1位の谷口尚巳(ホンダ)を抜いたが50Rで転倒R
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田中健次郎
鈴木義一
島崎貞夫
ホンダ
RC160
 以上スズキが出場した125ccについて述べてきたが、その他のレ−スについても簡単に述べてみることにする。

250ccクラス

 このレ−スでの注目マシンは、ホンダの並列4気筒4バルブのRC160だった。レ−スはスタ−トの頃から、浅間特有の霧がかかり始め、レ−ス半ばには100m前方の見通しすら困難な状況になった。レ−ス結果は、島崎貞夫・田中健次郎・鈴木義一・佐藤幸男・田中髀浮フRC160が1・2・3・5・6位、クラブマン招待選手の増田悦夫(ドリ−ムSS)が健闘し4位、クル−ザ−の長谷川弘・大岳実・今田俊彦・木村力が7・8・9・11位、ライラックの松川稔・大石享一が10・12位という結果だった。印象に残ったのは田中健次郎の豪快な逆ハン走行、ヤマハYDSに乗るクラブマン招待選手野口種晴の健闘だった。野口はホンダRC160に、唯一人よく食い下がり、ずっと4位をキ−プ、8周目には3位に上がったが、11周目エンジントラブルでリタイアした。なににしても ホンダRC160の全車完走は立派だった。
スタ−ト練習
社長の訓辞。一番左が筆者
RA練習車に跨る伊藤利一
完成したRA練習車
右から3人目が筆者
地蔵川旅館での筆者
 8月9日には、スカ−ト割れ対策の補強ピストンも完成し組み込む。12日には、他メ−カ−も顔を見せない早朝から、RB本命車 初の全開耐久テストを始めたが降雨のため、数周でやむなく終了する。RA練習車ではなかった、エンジンの「バラバラ(不整燃焼?)」が全車発生し、原因はわからない。また、分解してみて驚いた。ピストンが溶け始めのものあり、トップリングが折損しているものあり、ピストンピンセットリングがはずれて折損しているものあり・・・・・。全く、次から 次へと いろいろ問題が出るもんだ。コ−ス解放日はあと6日しかない。頭はチンチンだ。ホンダも本命車が顔をみせ、連続走行を始める。我々もRA練習車で練習開始だ。ホンダは6分丁度くらい、スズキも6分丁度から6分5秒くらいで走る。今日の悪い路面状況なら、ベストラップはこんなものか?。
いろいろ新しい問題を抱えているのに、台風7号が近づいたため、雨でテストが出来ず、焦る。13日夜半には、台風が直撃し昌和クル−ザ−の宿舎の屋根が吹っ飛ぶ。樹木も根こそぎ倒れる。コ−スも水びたしだ。

 16日、やっとコ−スが使用可能となった。コ−スを使えるのは、今日をいれて3日しかない。レ−ス出場諸元を決めるべく、2台のマシンで連続耐久走行を実施する。1周タイムは5分53秒程度で20周ほど走行したが、ホンダの河島監督も興味深く見ていたようだった。エンジンの「バラバラ」の原因もまだつかめない。分解してみると、1台はピストンが溶け始め、他の1台はリングが折損していた。もっとガスを濃くするなりの対策が必要だ。リング折損については、今からでは手の打ちようもなく、運を天に任せるしかない。
 17日、諸元を変えて、再び連続耐久走行を実施する。本日の諸元なら何とか耐久性はOKのようだ。レ−ス出場諸元が、やっと決定する。夕方になり、エンジンの「バラバラ」の原因はフロ−トの浮動方法が問題だということが、やっとわかる。
 18日は、テストコ−ス使用禁止でレ−スにそなえ、全車、分解整備。19日が最終のテスト日だ。全車、レ−スにそなえて、入念に摺り合わせを実施する。エンジンの「バラバラ」も、フロ−トを極端に浮動にすることでOKのようだ。
やるべき事は全てやり、あとは23日のレ−スを待つばかりだ。いろんな問題にぶつかり、なんとか殆ど、解決も出来た。頭はチンチン痛く、苦しい日々の連続だったが・・・・。この苦しみがあるからこそ、レ−スは楽しいし、面白いし、止められないのだが・・・。これは、一種の麻薬みたいなものかも・・・と思う。まともに最後まで走ってくれれば、優勝のチャンスは十分ある。ホンダに、簡単に負けるとは思わない。これがこの時の気持ちだった。

いよいよ23日がやってきた。朝から雨、しかも午前8時から9時にかけてどしゃ降り、レ−スは30分おくれて10時30分125cc耐久レ−ス(14周)がスタ−ト。幸いスタ−ト前に雨はやんだが、路面は水たまりもあるし、水を含んだ火山砂は手頃なすべり加減と、最悪な状況だった。1周終わっての順位は、谷口尚己(ホンダ)・伊藤光夫(スズキ)・北野元(ホンダベンリ−SS・クラブマンレ−ス優勝者で招待出場)・伊藤利一(スズキ)・福田貞夫(ホンダ)・松本聡男(スズキ)・市野三千雄(スズキ)。2周目、2位の伊藤光夫は転倒。5周目、トップの谷口も転倒。6周目にはいったときの順位は、北野・伊藤利一・藤井璋美(ホンダ)・鈴木淳三(ホンダ)・市野・松本。7周目2位の伊藤利一が予期しないタンク漏れでリタイア。最終ラップに入ったときの順位は、北野・鈴木淳三・藤井・市野・福田・松本であったが、市野は福田に抜かれ5位、松本はリタイア(原因は忘れた)、6位はト−ハツTwinの有川英司という結果だった。ちなみに、完走者の最高ラップタイムは、市野三千雄(スズキ)5分50秒、北野元(ホンダベンリ−SS)5分51秒、鈴木淳三(ホンダ)5分52秒だった。

 レ−スは、伊藤光夫の転倒、伊藤利一の予期しなかったトラブルで、全くの惨敗に終わった。優勝はホンダ工場レ−サ−でなく、ベンリ−SSに乗る若冠18才・クラブマン招待選手の北野元である。ホンダの河島監督、レ−ス担当者も複雑な想いであったと思う。レ−スには惨敗となったが、後日、このレ−スを観戦したホンダの本田宗一郎社長と、スズキの鈴木俊三社長が、同じ列車に乗り合わせ、本田社長が「スズキさんのレ−サ−も、よく走るから、TTレ−スに出てみたら・・」と鈴木社長に話されたとのこと。これで、スズキの1960年TTレ−ス出場が決まったのだから・・・・。と言う伝説となっている。
RB 本命車
 6月14〜17日にかけて、浅間に持ち込んだ4種類のクランクを組み込み、8000rpm以上での耐久テストを実施した。このうちの3種類は数百mで焼き付いてしまう。そして、最後のものが、やっと耐久性OKとなった。この時の嬉しさは忘れられない。なお、このテスト中に、ベストラップは初めて6分の壁を破り、5分51秒台を記録した。もっと良い記録を期待していたが、路面の荒れ状況が、大きくタイムに影響するから・・。これで、コンロッド大端の耐久性は一応解決したが、回転数を上げ、高出力で走行することになったため、今までなかった新しいトラブルが発生してきた。それは、コンロッド小端の焼き付き、ピストンの溶け・焼き付きなどである。

 ここで、「耐久性OKとなったコンロッド大端」について、述べてみる。当時の日本の二輪車業界は、まだまだ先進のヨ−ロッパの後追いの感があり、工業会や、それぞれのメ−カ−でヨ−ロッパメ−カ−の車を購入し、いろいろ車作りの参考にしていた時代であった。スズキでも丁度その頃スペインのモンテサ125cc(2サイクル)を買った。我々レ−スグル−プは、コンロッド大端の耐久性に頭を痛めており、このモンテサのクランクを分解してみた。この車のコンロッド大端の形式は「保持器は使用せず、3φ×11.8のロ−ラ−を並べている」ものだった。このような形式は、ロ−ラ−のスキュウ(Skew)が起こり、好ましくないというのが、ベアリングメ−カ−を始め、一般的な考えだった。でも、我々は「藁をもつかむ」気持ちで、これを参考に試作品を作り、8000rpm以上での耐久性を得ることが出来たのである。全く「モンテサさまさま」であった。ちなみに、クランクピン径17.53φ、ロ−ラ−3φ×11.8×21個、ラジアル隙間0.05というものだった。この形式を、我々は「バラニ−ドルタイプ」と呼称した。なお、この形式は1960,1961年の全機種、1962年の50cc世界選手権の獲得マシンRM62にも使用された。

 6月20日には、ベストラップ5分41秒台を記録し、高回転走行が可能になった成果も出てくる。目標としてきた5分30秒台も目前となった。
 さて、コンロッド大端の耐久性の解決により、新しく発生してきたトラブルの対策のため、6月21日〜26日は浜松本社で過ごした。まずは、コンロッド小端部の焼き付き対策のため、小端部も「バラニ−ドルタイプ」を採用したクランクを試作手配した。ちなみに、ピストンピン径14φ、ロ−ラ−2.5φ×15.8×20個、ラジアル隙間0.04という仕様とした。 次に、ピストン焼き付き対策としては、エンジンが前回転のV2X車を浅間に持ち込み、テストするよう準備した。(現在浅間で走行しているRA車はエンジンが後回転である)。この間、浅間では、ベストラップ5分39.5秒を記録したとの連絡が入った。

 6月30日朝、浅間山が爆発したが、曇りのため煙が少々見えた程度だった。この日、浅間に持ち込んだ、V2X車の連続耐久走行を実施したが、ピストン焼き付きトラブルは発生せず、製作中のRB本命車は大丈夫だろうと、一安心する。浅間山爆発による降灰で、テントの屋根は真っ黒だ。

7月2日には、ホンダの河島監督を始めとする6月のTTレ−ス参加した谷口、田中らが、初めて浅間に顔をみせた。マシンはTTレ−ス出場のエンジンを搭載したものだ。周回タイムは、スズキと同等か?、若干ホンダの方が速いか?。

 7月4日には、再び浜松本社に戻る。先回帰社の折り、試作手配しておいた「コンロッド小端にバラニ−ドルを採用したクランク」を運搬のためだ。製作が遅れており、スズライトに積んで浅間に戻ったのは7月11日だった。今思うと、当時のスズライトで、重い荷物を積んで、箱根を越え、碓氷峠を登り、よく故障なく・・・と思う。
 早速、持参したクランクを組み込み、耐久テスト準備は整ったが、連日浅間は雨ばかりで、テストがやっと実施出来たのは、7月15日だった。2台のマシンで10数周の耐久走行しても、コンロッド小端の焼けのトラブルはなく、まずはOKだ。翌16日には、6台で耐久テストを実施、コンロッド大小端の耐久性はOKだが、新しい問題として、ピストンスカ−トの割れが発生し、至急 対策ピストンを手配する。

 7月19日には、RB本命車を組み立てのため、全員が本社に戻る。そして30日には、組立の目途がつき、清水係長(監督)・ライダ−達は浅間に戻り、練習だ。そのあと、調整・テストが済み、8月6日RB本命車が浅間に持ち込まれた。
左が筆者、右が清水監督
左より袴田、清水監督、
筆者、一番右が鈴木清一
練習風景
 5月23日、故鈴木俊三社長の激励の訓辞を受け、浅間に向かう。レ−スまで約3ケ月間の合宿の開始だ。当時は浜松〜東京間は準急で4時間、東京支店に一泊して、翌日 合宿先である北軽井沢の地蔵川旅館に向かう。ここは昨年秋から、なじみの旅館だ。東京〜軽井沢間は急行で3時間余。旅館のすぐ隣には、3間×4間の修理小屋を、すでに建ててあった。部品を格納し、6台のマシンを修理するとなると、一寸手狭だが・・・。この修理小屋は、レ−ス終了後本社内に移築され、レ−ス部門の部品庫として、「浅間小屋」と呼ばれ、長く使われた。
 いよいよ5月25日練習開始。但し、コンロッド大端の耐久性がないため、7000〜7500rpmでの走行しか出来ない。Honda・Yamaha(250ccのス−パ−スポ−ツと前回出場の250レ−サ−?)も走っている。27日にはト−ハツも顔を見せる。125ccTwinエンジンだ。練習でのベストラップは日毎に速くなってくる。26日は6分30秒、27日6分18秒、28日には6分15秒と前回のヤマハ125ccのベストラップを上回る。、そして29日には6分13.5秒を記録する。目標タイムは5分30秒台だ。30日には、8000rpmで走ってみたが、やはりコンロッド大端が、1周も もたない。早く耐久性をつけ、フルの性能で走らせたい。
 5月31日、ジ−プで浜松の本社に帰る。RB本命車(レ−ス出場車)の諸元決定テスト&これの設計・製作手配の業務のためである。昨年試作したV2Xエンジンは、クランクが前回転であり、浅間合宿用に製作したRAエンジンは、後回転である。ベンチ耐久で、ピストンの叩かれ・焼き付き、リングの膠着などを比較し、RB本命車用エンジンは、V2Xと同じ前回転と決定する。これによりプライマリ−は、チエン駆動とする。RB本命車用エンジンの設計を行い、製作手配を済ます。そして、5月上旬試作手配しておいた、4種類のテスト用クランクを組み立て、これを車に積んで、6月13日浅間に戻った。このテストクランクの中で、8000rpm以上の走行に耐えるものがなければ、レ−スで優勝を争うことはあきらめなければならない。これが最後の望みである。なお、この間 浅間では、6分00秒のベストラップを記録したとのニュ−スも入った。
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上左より伊藤利一・故市野三千雄・
伊藤光夫、下左より故松本聡男・
増田俊吉・日向昌勝
浅間高原自動車テストコ−ス
 前年の1958年秋にはV2Xと名付けたテスト車を作り、浅間コ−スで「予備テスト」を実施した。この時のベストラップは6分38秒だった。しかし、コンロッド大端の耐久性がなく、大きな課題を持って帰社した。1958年秋から1959年春の間は、出力アップとコンロッド大端の耐久性向上に懸命に取り組んだが、後者の方はこれはという成果は得られなかった。5月上旬には浅間コ−スで「コンロッド大端の耐久性テスト」を実施した。出力性能上は9000rpmで走りたいのだが、これでは1周ももたない。20日後からにひかえた浅間合宿は耐久性のある7000〜7500rpmでスタ−トするしかないと言う結論だった。すぐに、まだ未テストのいろんな型式のものを試作手配し、6月10日頃完了予定となった。
 8月22・23日のレ−スに向け、各社とも早くから、浅間での合宿練習を計画していた。スズキも5月中旬からの浅間合宿を計画し、練習車RA型(2サイクル単気筒56φ×514段ミッション)を準備した。出場ライダ−は、伊藤利一・伊藤光夫・市野三千雄・松本聡男・増田俊吉の5名に、補欠として伊藤兵吉さん紹介の日向昌勝くんを加え合宿練習を行うことになった。
第3回浅間火山レ−スは、1959年8月22・23日、第2回と同様に「浅間高原自動車テストコ−ス」で開催されることが決まった。メ−カ−対抗の「耐久レ−ス」と「クラブマンレ−ス」の共催であった。なお「クラブマンレ−ス」での、上位入賞者は 「耐久レ−ス」に招待出場出来た。尚、スタ−ト方式は、前回と異なり、全車同時スタ−トとなった。第2回に参加しなかったスズキも、今回は早くから125ccクラスへの出場を決定した。なお、第1・2回に好成績をおさめたヤマハは参加しなかった。
[1959年第3回浅間火山レ−ス]