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(何10年も?)の間、スポーツ好きレース好きを続けてくると、それはそれは様々な名勝負、名レースに出会うことになる。
 個人的に心に残る名勝負をあげればキリがないけれど、例えば球技編なら…
1972年、ミュンヘンオリンピック・男子バレーボール準決勝の日本vsブルガリア戦
1979年、全英オープンテニス・男子シングルス決勝のビヨン・ボルグvsロスコー・タナー戦
1993年、サッカーワールドカップ・アメリカ大会アジア最終予選・最終戦の日本vsイラク戦
 そして、このサイトの主旨に添ったレース編なら…
1982年、全日本モトクロス選手権最終戦(鈴鹿)125ccクラス・第2ヒートの大関vs藤
1985年、鈴鹿8時間耐久オートバイレース決勝のヤマハvsHonda
1992年、フォーミュラ1世界選手権第6戦モナコGP決勝のセナvsマンセル
 …といったあたりが確実に上位を占めることになるだろう。
 それぞれの試合やレースにはボクなりの思い入れや背景があるから、もちろん一般的な評価とは異なるかもしれないけれど、これらは試合/レース内容の凄まじさ、結末の感動といった点で間違いなく屈指の名勝負だった。テレビ観戦にしろ現場にいたにしろ、終了後「しばらく動けない状態になる」という点で、それらは共通している。
 そんな意味では、今年の世界選手権ロードレース・オーストラリアGP500ccクラス決勝(ロッシがタイトルを決定したレース)も、テレビを見終わった後しばらく立ち上がれないほどの凄まじいレースだった。球技で言えば、MLBワールドシリーズ(NYヤンキースvsAZダイヤモンドバックス)のヤンキースタジアム戦も、今年の名勝負のひとつに加えていいだろう。放送を終えたブラウン管に「もう、本当にありがとうございました」と正座して深々と頭を下げたくなるような、こんな素晴らしいレースや試合にはなかなか出会えるものではない。
 ひと試合/ワンレース…から、もう少し視点を拡げてワンシーズン…ということになると、ボクにとってロードレース世界選手権500ccクラスのタイトル争いを中心とした1983年のロードレースシーンは、忘れることの出来ない思い出のひとつだ。ケニー・ロバーツvsフレディ・スペンサーというアメリカが生んだ不世出のライダーふたりと、そしてさらに何人ものライダーが繰り広げた壮絶なワンシーズンのドラマは、最終戦が終わって何日かは放心状態になるほどのものだった。
、79、80年と3年連続で怒濤の500ccクラスチャンピオンとなったロバーツとYZRは、続く81、82年、テスト中の負傷やマシン開発の不調でランキングで3、4位に低迷していた。決して彼の実力が下降線を辿っていたわけではなかったが、ほんの小さな歯車の狂いは瞬く間に彼をチャンピオンの座から引きずり降ろした。
 ロバーツを取り囲むスズキRG軍団の攻勢は執拗だった。ロバーツの走法、戦法を徹底的に分析し、これをRGのマシン特性によって攻略するという策は、81年のマルコ・ルッキネリ、そして82年にはHondaに移籍したルッキネリの代わりにワークスマシンに乗ったフランコ・ウンチーニのタイトル獲得という成果を結んでいた。

 そしてHondaは、82年に実戦投入を開始した2ストロークマシンNS500が、グランプリに本格参戦を開始したスペンサーらのライディングによって3勝をマーク。ランキングでもスペンサーは3番手につけて、一躍GP500のトップコンテンダーへと躍り出たところだった。

 

 だが、翌年に向けてロバーツとYZRはマシン開発で自信に満ちた方向性を見出し、83年をタイトル奪回の年に定めていた。そしてその後ロバーツはこの年を最後にGPから引退することを臭わせ、その後継者としてエディ・ローソンを引き連れてGPに参戦することとなった。スズキも、さらにマシン開発を進めたRGを投入し、ウンチーニとランディ・マモラで連覇を狙うとともに、7年連続で獲得してきたメーカータイトルを死守する体制を整えた。一方Hondaは、NSとスペンサーによって一気に初タイトルを狙う構えだった。
 引退を予告し、また最後のチャンスにタイトル奪回を目指す老練のロバーツ。前年のチャンピオンであり、押し寄せるアメリカンライダーからGPの牙城を守ろうとするウンチーニ。2年目にして早くもタイトル奪取を狙う新進気鋭のスペンサーが絡み合う構図を軸に、3ワークスそれぞれの思惑が開幕当初から魅力的なストーリーを提供するかたちで、1983年はスタートした。
3戦連続で優勝したスペンサーの走りは、早くも彼を83年のチャンピオン候補の最右翼に押し上げた。第1戦南アフリカ・2位(7秒遅れ)、第2戦フランス・4位(チャンバートラブル)、第3戦イタリア・リタイヤ(転倒〜再スタート〜ガス欠)と大きくつまずいて序盤を終えたロバーツは、しかしタイトルへの希望を捨てていなかった。10歳年下のスペンサーと、YZR500に9年遅れてGPへの挑戦を開始したNS500を緻密に分析し、その後輩たちの攻略法を練っていた。

 予定が大きく狂ったのはスズキ勢だった。開幕から思わぬRGの不調に加え、第2戦ではマモラがもらい事故で負傷しウンチーニは始動不良〜リタイヤ。早くもRGのタイトル獲得に暗雲が立ちこめる。

 スペンサー側にも、不安はあった。前年82年のレース11戦のうち優勝2回、問題なくレースを終えたのが4回、マシントラブルによるリタイヤ3回、転倒リタイヤ2回という、出入りの激しいシーズンであったのも確かだった。そして、その危惧が現実となったのが第4戦西ドイツだった。トップを快走しているさなかにチャンバートラブルに襲われ、彼はNSを4位に導くのが精一杯だった。

 これだけでも充分に波乱に満ちたシーズン序盤だったが、ボクにとっては第2戦フランスにおいて、石川岩男というライダーを失ったことが大きくのしかかっていた。全日本の350cc時代に全勝でタイトル獲得という快挙をなし遂げ、長年の念願かなってGPに初挑戦したフランスが、彼の最後のサーキットとなってしまった。個人的にも仲の良かった石川の夭折は、この83年というシーズンをより強烈に位置づける結果となった。
 グランプリでは、その後スペンサーとロバーツの一進一退の攻防が続いていた。第5戦スペインを優勝で取り返したスペンサー。しかしロバーツも2位につけ、それ以上のポイントリードを許さない構えを見せる。そして第6戦オーストリアでは、スペンサーのNSがクランクトラブルでリタイヤ。このレースにロバーツは優勝し、スペンサーのポイントリードはわずか6点に縮まってしまう。
 しかし、この中盤戦にまたしても大きなアクシデントが待っていた。第7戦ユーゴスラビアの直前、全日本Hondaチームのエース木山賢悟が鈴鹿200kmレースの練習中に転倒。2年前のNRによる優勝も記憶に新しい彼が、不帰の人となってしまったのだ。国内で長くMr.4ストロークの名で親しまれた木山さんの訃報によって、この83年というシーズンは決して忘れられないものになった。
 その第7戦ユーゴスラビアでは、スペンサーが優勝。ロバーツはスタートでエンジンがかからず後方からの追い上げで4位まで浮上するのが精一杯だった。しかし続く第8戦オランダではスペンサーがタイヤチョイスを失敗し3位にとどまり、ロバーツが優勝。これでふたりの点差はまた8点に縮まった。
 しかし、オランダのドラマはそれだけで終わらなかった。日本で絶大な人気を誇ったワイン・ガードナーがこのレースでグランプリにデビュー。だがその初挑戦のレースで、ガードナーは転倒したウンチーニを避けきれずに激突。ウンチーニはシーズンを棒に振る重傷を負ってしまう。ドラマもここまで続くと、観ている方も疲労困憊といったところだが、残り4戦のレースはアクシデントもなく、息も詰まる好レースの連続となった。
オランダに続いて第9戦ベルギー、第10戦イギリスと3連勝を飾ったロバーツは、スペンサーとの点差を2点にまで縮めてきた。そして、この83年にタイトルを獲得して自分はGPから引退する旨を、非公式ながら認め始めた。そのコメントによって、ファンの多くが去りゆくであろうロバーツ側についたのは言うまでもない。
 一方、3戦続けて優勝することの出来なかったスペンサーにとって、第11戦スウェーデンは、まさに正念場だった。このスウェーデンを落とせばロバーツに1点のリードを許し、タイトル争いは限りなくロバーツ有利に展開してしまうことになる。ポイントをリードしながら、実はスペンサーの気持ちはギリギリのところまで追いつめられていたに違いない。ボクは、今でもこのスウェーデンGPのデッドヒートが、この83年のハイライトではなかったかと思っている。
 4周目にスペンサーを抜いて、ロバーツはトップに立った。しかしこれは、明らかにスペンサーの作戦だった。オランダで序盤からリードしてタイヤを疲労させロバーツにしてやられたスペンサーは、ジックリと先輩の後ろについて最後の機をうかがうレース展開を選んだ。そして、最終ラップの最終コーナーひとつ手前の右カーブで、スペンサーは先を行くロバーツのインに半ば強引にマシンをこじ入れ、力ずくで首位を奪い取った。
 レース後、このスペンサーのライディングには賛否両論が集まったが、ロバーツのコメントは明快だった。「あそこで何インチかの余裕を与えた自分のミスだ。その何インチかを見逃さなかったスペンサーは、今年素晴らしい進歩を見せた」もはや、500ccクラスにおいて、ふたりは完全に孤高の戦いを繰り広げていた。それ以上、周囲がそのデッドヒートに口を挟むことは出来なかった。

 最終戦を残して、スペンサー132点、ロバーツ127点。その差5点。つまりロバーツが優勝したとしてもスペンサーが2位に入れば、スペンサーが2点リードでシーズンは幕を閉じる。誰かがロバーツとスペンサーの間に入らなければ、ロバーツのタイトル獲得はあり得ない。このシーズンの実力からみて、その役目を果たさなければならないのは、ローソンしかいなかった。

 スウェーデンから最終戦サンマリノまでの4週間のインターバルは、両チーム両ライダーに充分な時間を与えた。HondaはすべてのNS500を日本に持ち帰り、徹底的なメンテナンスを施した。やれることはすべてやった…という実感を胸に、両チームはサンマリノGPに赴いた。そしてそのプラクティス、83年最後のアクシデントが両チームを襲う。スペンサーを援護してローソンを抑えなくてはならない片山と、急遽ロバーツの援軍として担ぎ出された250ccチャンピオンのカルロス・ラバードが、相次いで転倒し負傷。これによって、タイトル争いはスペンサーとロバーツ、そしてローソンの動きだけに集約されることになった。

、当然のようにポールを獲り、スペンサーも0秒51差で2番手をキープした。ルッキネリが3番手、ローソンは4番手にとどまった。そして、レースは序盤からロバーツとスペンサーのトップ争いとなった。

 ロバーツは予選タイムをかなり下回るペースでスペンサーを抑え込み、ローソンが追いついてくるのを待った。しかしローソンはルッキネリを抜きあぐねて、周回は進むばかりだった。誰もが、自分の仕事をまっとうしようとしていた。各々のライダーの順位にこれだけ重要な役割がこめられたレースも稀だった。

 隙あらばとロバーツにしかけるスペンサーを抑えながら、ローソンが真後ろに迫るのを待つロバーツの老練のテクニックは、あの時代のGPにおけるひとつの究極の走りだった。そして最終ラップ、ロバーツはローソンの援護がもはや不可能であると結論を出し、アクセルを思うままに開けた。普通なら、スペンサーはここでロバーツの逃げを許してなんの問題もないだろう。しかしスペンサーは最後までロバーツを追い続け、2番目にチェッカーを受けた。ふたりのバトルは、最後の最後まで高いレベルのテクニックと、そして誇りに満ちていた。

 優勝、ロバーツ。2位、スペンサー。そしてランキングポイントはスペンサーが144点、ロバーツが142点となった。結果的に2ポイントの差がついたふたりだったが、優勝数、ポールポジション獲得数ともに6回ずつ。2位入賞も3回で同数。リタイヤも1回で同数。スペンサーが3位1回、4位1回だったのに対し、ロバーツは4位が2回あった。それだけが、ふたりの差だった。そしてその僅かな差によって、500ccクラスのタイトルは21歳の若きアメリカンのものとなった。さらにHondaはNSでのチャレンジ2年目、NRによるGP復帰から5年で、念願の500ccクラスメーカータイトルを手中にした。
  ラウンド 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12














西


































スペンサー 予選順位 PP 2 2 PP PP 2 PP 2 PP 2 PP 2
決勝順位 1 1 1 4 1 Retire 1 3 2 2 1 2
ロバーツ 予選順位 4 PP PP 2 2 PP 2 PP 2 PP 2 PP
決勝順位 2 4 Retire 1 2 1 4 1 1 1 2 1
  得点差 3 10 25 18 21 6 13 8 5 2 5 2
 ポーディアムで勝利の王冠を被せられたロバーツは、一切の笑顔を見せなかった。2位のスペンサーが、その横で喜びの笑顔を爆発させていた。3位のローソンは、自分の置き場がないようにうつむいていた。ロバーツは長男のロバーツJr.を傍らに呼び、自らの終幕を余すことなく伝えた。
 こうして83年シーズンは、その幕を閉じた。その後、スペンサーとローソンは好敵手として80年代中盤のレースシーンを盛り上げた。83年に手痛いデビューを果たしたガードナーは、やがてスペンサーに代わってHondaのエースライダーを務めるまでに成長し、後のミック・ドゥーハンという圧倒的なチャンピオンの誕生に多大な影響を与えた。そして500ccクラスは、GPにおける絶対的なポジションと人気を獲得し、現在に連なる栄光の時代を築き始めた。
 どんな時代に生まれ、そこで、どんな出来事に遭遇することが出来るか…その偶然性と自らのアンテナの能力が、個々の人間に限りない影響を与えることは確かだ。ボクはいまだに、83年のGPシーンと、それを彩ったライダーたちに対して「本当にありがとうございました」という気持ちを抱き続けている。
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