エンジン種類 空冷4サイクル直立単気筒OHC
排気量 348cm3
最高出力 over 28PS / 6,500rpm
最高速度 over 144km/h
車両重量 100kg
世界初のOHCエンジン量産車。Kはカムシャフト、TTはマン島用を意味。'30年に日本人最速の多田健蔵がTTに招かれ、初出場15位入賞を得た同型車。
1930 / ベロセット KTT マーク I
エンジン種類 空冷4サイクル単気筒OHVプッシュロッド
排気量 125cm3
最高出力 6PS(推測値)
変速機 摺動噛合式2段
サスペンション(前) ガーターフォーク
サスペンション(後) リジッド
昭和29年
国産車として初めて海外に遠征した、E型エンジン搭載レーサー。ブラジル・サンパウロ市400年祭国際オートレースで完走。(インテルラゴス13位 (136) 大村美樹雄)
1954 / ホンダ R125
メグロ製作所

 もともと機械部品や2輪4輪の修理を生業としてスタートしたメグロのルーツは、大日本帝国海軍の技術者だった鈴木高次氏が、勝海舟ゆかりの勝 精伯爵が邸内の敷地に知人と建てた村田鉄工所に入社し、その後独立して興したメグロ製作所(大正13年創立)に由来する。

 やがてメグロはモーターサイクル関連の仕事に従事するようになり、昭和12年(1937)に初の完成車メグロ号Z97型500ccを完成。ちなみにこの97型とは皇紀(天皇を基とした日本独自の年号形態)2597年を表すものであり(海軍の名戦闘機ゼロ「0」戦は、皇紀2600年の制式採用によって0戦の名を冠している)当時の軍国主義的な時代背景を如実に写している。

 その後、そのZ型500ccを中心とした大排気量クラスでの地位を固め、国内のトップメーカーとして君臨している。またレースにも積極的に参加し、昭和27年に小型自動車振興法(いわゆるオートレース)に基づいてその車両の製作を引き受けるなどの栄誉に浴している。

 昭和30年には第1回浅間火山レースが開催され、その500ccクラスで見事優勝したのもこのメグロだった。しかし、昭和33年のホンダ・スーパーカブ発売を契機に小型実用車のニーズが増加し、メグロは昭和35年にカワサキと業務提携。そして昭和39年にはついに倒産の憂き目にあいその40年に及ぶ歴史に幕を下ろすこととなった。しかしその後もオートレース用車両の製作などを手がけ、その名は多くの人々の中で脈々と生き続けている。

大村美樹雄

1949年2月1日にホンダに入社。組み立てや試運転修理(完成車を試運転し、調子の出ないものを修理する)のかたわら、浜松の野口公園で行なわれたアマチュアレースに「オヤジに内緒で」出場。その経験を生かして、1950年7月、多摩川スピードウェイで行なわれた戦後2回目の全日本モーターサイクル選手権で優勝。実績を認められ、1954年2月16日に行なわれたサンパウロ市400年祭の一環として行なわれた国際モーターサイクルレース(正式には、『自動自転車競技大会』)、当時社長の本田宗一郎から「何としても完走だけは頼む」と下落合の自宅で命じられ、1月13日、羽田空港からサンパウロに出発。パリ経由で6日間をかけて到着し、青息吐息ながらも13位完走を果たす。その実績は、本田宗一郎にマン島宣言公示に踏み切らせるひとつのきっかけとなった。

ドリームE型

 1952年に発売が開始された、ホンダ初の4ストロークモデルで、その後しばらく「4ストロークのホンダ」といわれる基礎となった記念すべきモデル。OHV単気筒エンジンをプレス構造のチャンネルフレームに懸架し、リアにはプランジャーサスという、今からみれば実に原始的なオートバイであった。

 サンパウロ用レーサー「R125」は、参加クラスである125ccに合致させるべくクランクを改造して排気量を125ccとし、専用のパイプフレームを製作。全体の外観としてはオートレース用マシン(またはグラストラック用マシン)的な印象を受ける。ベースモデルのE型が150ccで5.5hpの最高出力であったことから、125ccにストロークダウンしたR125はせいぜい4.5〜5馬力の最高出力であったと推測される。当時の世界的ロードレース用マシンではすでに10数馬力の最高出力を発揮しており、5速ミッションも当然とされていた時代であり、この馬力、2速ミッションで13位入賞となったことは、異例中の異例、望外の快挙といってさしつかえない。

世界選手権ロードレース

 1907年に設立されたFIM(Federation International Motorcyclist)が統括する2輪ロードレース・シリーズ戦の最高峰。ロードレース部門は1949年にシリーズ戦がスタート、すでに50年の歴史を誇っている。ちなみに4輪のF1が世界選手権としてスタートしたのは1950年のことだった。

 当初125.250.350.500cc.サイドカーの5クラスで開始された世界選手権は、1962年から50ccクラスを追加。やがて350ccクラスは1982年をもって廃止され、50ccクラスは1984年から80ccクラスに移行。そして1989年をもって廃止され、世界選手権ロードレースのシリーズ戦としては現在125.250.500ccの3クラスのレースが開催されている。

 ライダーは年間シリーズ戦を戦い、各レースの順位に応じてポイントが与えられ、その合計ポイントに応じて年間ランキングが与えられる。またメーカー(マシン)にも同様の得点制度があり、マニュファクチャラーズ・チャンピオンシップいわゆるメーカータイトルが与えられる。

 ロードレースの他にもモトクロス(500cc1957年から。250cc1962年から。125cc1975年から)やトライアル(1975年から)、また耐久レース(1975年から)、TT F1(1977年から)、スーパーバイク(1988年から)などの各レースが開催されている。

マン島TTレース

 19世紀終盤からヨーロッパ各地でレースは開催されていた。しかしそれはどれも単発のレースであり、どこで開催するのがベストであるのかはまだ暗中模索の時代であった。特にレースによっては開催国のメーカーに有利な状況を作り出してしまったり、また完全に開催国メーカーのレギュレーション違反が行なわれるなどの問題もあったのである。

 レース関係者、特に世界の2輪レースの牽引者であるイギリスのACC(オート・サイクル・クラブ)は、イギリス国内での恒久的なレース主催を画策していたが、当時のイギリスは1903年に自動車類の制限速度を20mile/hour(約32km/h)に設定する法律が施行されており、公道を使ったレース開催は不可能だった。

 そこでACCが目を付けたのが、独自の議会を持ち制限速度等が緩やかだったマン島(グレートブリテン島とアイルランドの間アイリッシュ海に浮かぶ小さな島)だった。ここは大英帝国の連邦内ではあったが、独立した自治政府をもち、法律的にも融通の利く環境に恵まれており、レース開催には好適地と考えられた。

 こうして、1905年に実験的なレースが開催され、この結果を協議したところ、恒久的なレース開催に問題なしとの答申を受け1907年5月28日に記念すべき第1回マン島ツーリスト・トロフィー・レースが開催された。この時以来、マン島は2輪レースの聖地としての地位を築いていった

 1949年に2輪の世界選手権シリーズがスタートしたときの栄誉ある第1戦もこのマン島で開催され、250.350.500ccの3クラスのレースが開催されている。以後、マン島TTレースは2輪世界選手権の代表的レースとして存在し、数々の名勝負と物語をその歴史に残している。しかし、時代の移り変わりの中で公道を使用するサーキットの危険性が指摘され、クローズドサーキットが各地に建設されるにいたり、マン島もそのレース界の主役の座を明け渡す日がやってくる。

 1976年の世界選手権第5戦(6月12日)をもってマン島は世界選手権レースの開催から外され、伝説の聖地として我々の記憶に留まることとなった。しかし、マン島そのもののレース開催地としての魅力には絶大なものがあり、また島政府の観光客誘致への強い情熱もあり、マン島では現在も毎年6月にマン島ウィークとして各種のレースイベントが開催されている。また世界選手権ロードレースからは外れたものの、1977年からは世界選手権フォーミュラTT-1(4ストロークマシンによるレース)の開催地としてまだまだ健在なことろを見せている。

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多田健蔵

 もともと自転車の選手としてレース生活をスタートさせた多田が自転車からモーターサイクルに転向したのは大正10年ごろのことだった。とは言っても、当時の日本では系統だったレースは開催されておらず、年に何回かの単発レースが行なわれていたにすぎない。多田も自ら自転車屋を経営し、またいくつかの自製自転車を製造していたようだ。

 1930年、そんな中モーターサイクルレースでその名を馳せた多田の元に、イギリスはベロセット社からレース出場の打診があり、多田はこれを受けてマン島に赴くことになった。朝鮮からハルピンに入り、シベリア鉄道を経てヨーロッパへとたどり着いたのは、出発から40日が経ってからだったという。

 現地でベロセット350ccを受け取り、なんと1ヵ月の練習時間を経て出場したレース=ジュニアクラス350ccで15位完走。これが、日本および日本人が世界のレースに触れた初めての瞬間であった。以来Mr.Tadaは日本のレース関係の中心人物として海外からの折衝にあたったり、またレース統括団体のMFJ設立に多大な貢献を果たしている。1889年2月17日生まれ。

 この多田の挑戦から29年後の1959年、ホンダがマン島TTに挑戦し、以後熾烈な戦いがくり広げられていくのだった。

当時の日本

 1953年といえば、日本初の組織的レース「全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞パレード=俗に言う名古屋TTレース」が3月21日に開催された年。それまでにも単発的レースは開催されていたが、メーカー単位での参加を主体としたいわゆるレース形式のオートバイ競争はこの名古屋TTレースが我が国最初のものだった。

 また、7月8日には富士宮市浅間神社から富士山2合目までをコースとする「富士登山レース」も開催されている。こちらもメーカー単位でのエントリーを主体としたレース形式をとっていたが、どちらかといえば地元の観光誘致をメインにしたイベントだった。

 いずれにしても、日本国内では全国的規模での本格的レースが産声をあげたかどうかというのが、この1953年の現状であった。

ブラジル・サンパウロ市市制400年記念 国際モーターサイクルレース

 このレースは、世界選手権などのシリーズ戦ではなく、サンパウロ市の市制400年を記念して行なわれたまったくの単発レース。しかしレースに出場したのは当時の超一流チームであり、名だたるワークスマシンが出走した記録が残っている。

 ちなみに大村が出場した125ccクラスの覇者はモンディアルに乗るネロ・パガーニ(Nello Pagani=1949年の世界選手権ロードレース125ccクラス初代チャンピオン。のちにMVアグスタのワークスライダーとしてその名を馳せた)で、最高速度はすでに100マイル(約160km/h)を越えていたという。大村のドリームE改は100km/hそこそこの最高速で13位に入っているのだから、これは大健闘としなければならない。

 第二次世界大戦の終了からわずか9年の当時、南米のブラジル、アルゼンチンなどは大戦中に主戦国に資源や食料などを大量に供給し、戦争終了時には世界でも有数の黒字国であったことも、このレース(市制400年祭)を世界的な規模で開催させる原動力になっていたに違いない。

 レースが開催されたのはインテルラゴス(Interlagos)サーキット(後に正式名アウトドローモ・ホセ・サンカルロス・パーチェAutodromo Jose Carlos Pace=ブラジル出身のF1ドライバーの名を冠している)で、ここはその後1973年から4輪のF1も開催され、南米随一の施設と歴史を誇るサーキットである。ちなみにF1は1973年から1998年までのブラジルGP26戦の内16戦がこのインテルラゴスで開催されている。

 一方、これまで2輪の世界選手権がブラジルで開催されたのはわずか4戦のみ(1987、1988、1989、1992年)で、インテルラゴスが使用されたのは1992年の1回だけ。2輪の世界選手権ではアルゼンチンが南米最多の8回(1961、1962、1963、1981、1982、1987、1994、1995年)の開催を数えている。