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Vol.2 栄光への助走



 今日、日本製レーシングマシンは、あらゆる二輪モータースポーツの舞台で大活躍している。この事実は、レースファンを自認するものならば、知らない人はいないだろう。しかし、国産レーシング・モーターサイクルが今日の地位を築くまでの道程は決して平坦なものではなかった。日本のレース史、半世紀余の歴史は、数多くのライダー・技術者たちの情熱、挫折、栄光の上に成り立っているといえよう。そしてスズキは、日本のレース史黎明期から現在まで、世界の舞台に日の丸を掲げ続ける一役を担ってきたメーカーのひとつである。

 本稿は、1950 年代よりスズキチームのスタッフとして、レース活動に従事された伊藤光夫氏、清水正尚氏、中野広之氏、神谷安則氏の回想をもとに、1968 年までの第 1 期スズキ GP 活動期を振り返るものである。

 太平洋戦争の終結から間もない 1949 年、戦前からの歴史を持つオートレースが再開した。街には省資源で造れる簡易交通機関として、自転車に原動機を取り付けただけの「原動機付自転車」が溢れかえる。人々は苦しいながらも、着実な復興の手がかりを感じていた。

 1950 年代に入ると、順調な二輪車産業の発達とともに「本格的なレース」を求める機運は自然と高まっていった。作り手であるメーカー、受け手であるユーザーの双方、つまりバイクに関わる人たちの純粋な知的好奇心……どれだけ速く、より確実に走れるマシンを造れるか……が、本格的レース実現への原動力に結びついたのである。

 1953 年 3 月の「名古屋 TT レース」(通称)、7 月の「第一回富士登山レース」は、戦後開催された初めての本格的レースだった。もっとも、本格的とはいえ今日のロードレースのような、専用コースが日本になかった当時の話である。その舞台として使用されたのは、未舗装路ばかりの一般公道。出場車両も一般に販売されていた公道用モデルに、幾ばくかの改良を加えたレベルのものがほとんどだった。

 そして、この「第一回富士登山レース」こそ、スズキ製マシンが初めて大活躍したイベントであった。

                            
                     ブームを生んだダイヤモンドフリー号。(1953 年)
                       ダイヤモンドフリー号は、バイクブームの一翼を担った。
                       それを物語っている写真。場所は、東京の三菱銀行前。
                              右端は鈴木俊三第二代社長。


                      
                    スズキ二輪車の原点、パワーフリー号。(1952 年)
                    ダブル・スプロケット・ホイルや 2 段変速といった画期的な技術を
                      盛り込んだパワーフリー号は、スズキ二輪車の原点といえる。
                        52 年から 54 年までに 1万 2,500 台を生産した。




 当時のスズキには、現在のように正式に社内組織化されたレース部門は存在していなかった。織機メーカーであるスズキが、新分野である二輪事業進出の第 1 号車 として、パワーフリー号(空冷 2 ストローク 単気筒 36cc・1ps)を完成させたのは 1952 年のこと。当時の国内二輪業界の中では、まだまだ駆け出しのメーカーのひとつに過ぎなかった。

 そんなスズキの設計グループの中から、「好き者」たちが集まって、地元浜松や磐田のアマチュアレース(オーバルのダートトラック)用の市販車改造レーサー造りに勤しんだのが、栄光のスズキレーシングチームの「原型」となった。

 戦争の影響もあって、社内スタッフは 20 代の若手ばかりというスズキには、「若さ」と「自由闊達」さが満ちていた。開発中の市販車の公道テストでは、テストライダーとして設計者自身がハンドルを握ることも珍しくなく、当然のように社の重役までもが試走の一行に加わることも少なくなかったという。そんな血気盛んなスズキのスタッフたちにとって、レースという刺激的なスポーツは当然魅力溢れるものに映ったに違いない。

 「第一回富士登山レース」の年、1953 年に、スズキは二輪第 2 作目であるダイヤモンドフリー(空冷 2 ストローク単気筒 60cc・2ps)の販売を開始している。このモデルは、当時市場に溢れていた数々のバイクモーター(原動機付き自転車)の中で、最もパワフルな 1 台と言われていた。このダイヤモンドフリーを引っ提げて、スズキは「第一回富士登山レース」に参加。

 4 ストローク 150cc、2 ストローク 90cc を上限とするレース規則下で、排気量のハンデもものともせず、ダイヤモンドフリーは原付枠では唯一 1 時間を切る好タイムをマークした(ライダー・山下林作)。1 位の 4 ストローク 150cc 車のタイムは 36 分で、流石にタイムトライアル方式・混走ルールでの上位入賞には及ばなかったが、原付クラス優勝と呼べる成果を、スズキチームは初戦から収めたのである。

 この成功は、設計グループの「レース熱」を加速させることとなる。翌 1954 年の「第二回富士登山レース」では、同年春に完成したスズキ初の本格的バイク、コレダCO型(4 ストローク OHV 90cc・4ps)をチームは持ち込むが、首尾良く山下林作が快走し再び優勝(この年から、正式に原付自転車クラス成立)の栄誉に浴することとなった。またこの年の「富士登山レース」は、「宣伝効果」に着目した数多くのメーカーが前年を上回る規模で臨んだレースであったため、この年のスズキチームの勝利は、前年以上に価値の高いものであったといえよう。

                       
                      「富士登山レース」2 年連続優勝。(1953 年)
                「第一回富士登山レース」でスズキはダイヤモンドフリー号を出場させ見事優勝。
               翌年の第二回大会にはスズキ初の二輪完成車コレダ号で 2 年連続の優勝を遂げた。





 1950 年勃発の朝鮮戦争による特需、1952 年の石油統制令廃止、そして無免許で原動機付き自転車を運転できる許可制の導入と、二輪業界へ次々と吹き込んだ「追い風」は、国内レース界を更なる高いステージへと飛躍させる。業界団体である日本小型自動車工業会の主催による「第一回全日本オートバイ耐久ロードレース」が、1955 年に浅間山の麓にて開催されることが決定したのである。

 この、日本最大規模のレースイベントに対してスズキは、過去 2 回の「富士登山レース」で収めた好成績から、自信を持って参戦を決定。従来の市販車改造車での参戦には満足せず、設計グループは休日を返上してわずか約 40 日という短期間で、レース専用のコレダ号(空冷 2 ストローク 単気筒 125cc・8 〜 9ps)を完成させた。

 当時としては先進の技術であったスイングアーム式フレーム、そして 4 速ミッションを採用したレース用コレダ号は、紛れもなく国産モーターサイクル技術の先端を行く高性能車であったが、レースに対して準備万端で臨んだライバルメーカーを相手に苦戦を強いられた。

 結果スズキチームは、入賞圏内の 5 〜 6 位に出走 5 台中の 3 台を滑り込ませ、何とか面目を保つのが精一杯だった。

 浅間でのレース後、スズキはレースへの参戦取りやめを決定した。二輪と共に四輪事業へ取り組み始め、両者を軌道に載せなければならなかった社内事情。そして、その宣伝効果は魅力的ではあるが、1 度参加する毎に膨大と費やされるレース経費の問題など、様々な要因が絡まった末に導かれた苦渋の選択であった。

                       
                     スズキ初の4サイクル車「コレダ号」。(1954 年)
           工場内に並んだコレダCO型(90cc)試作車。スズキは初の4サイクル車、「コレダ号」 を完成。
                       この年、鈴木式職機を鈴木自動車工業へと社名を変更。


                       
                      125cc の「コレダ号」浅間レース出場。(1955 年)
            群馬県浅間で開催された「第一回全日本オートバイ耐久ロードレース」にはスズキ初の 125cc 車、
                       コレダST型(2 サイクル)で出場して 4 位入賞を果たした。





 1957 年には、2 年前の成功を受けて、やはり未舗装路ではあるが専用コースを新設して「第二回浅間火山レース」が開催されたが、上述の決定に基づきスズキは参戦を見送ることとなった。しかしこのとき設計グループは、完全にレーサー開発の歩みをストップしていたわけではなかった。市販車開発という多忙な業務の合間を縫って、細々とではあるがレース用エンジンの研究を継続していたのである。

 戦後から急速に成長し、一時は 100 社以上のメーカーが乱立していた国内二輪業界も、次第に「勝ち組・負け組」の旗幟が鮮明となりつつあった。また国内市場には製品が行き渡りつつあり、次第に飽和現象が現れ始めていた。存続のためには、新たな市場である輸出への道を、各企業が模索しなければならない時期ともいえた。

 設計グループの信念と、レースという魅力あるスポーツに懸ける情熱は、1958 年の秋ごろに報われることとなった。もし翌 1959 年に開催される「第三回浅間火山レース」に勝てる見込みがあるのならば、という条件付きではあるが、社の方針が再びレース活動再開へと傾くこととなったのである。

 設計グループは、その時点では車体もミッションもない、研究用に設計した 2 ストローク 125cc エンジン単体しか手元になかったが、この方針変更の流れを掴むべく、突貫工事で試作車を完成させ浅間のコースに持ち込んだ。そして試走の結果、1957 年大会の優勝タイムに、さほど遜色ないタイムを記録できそうだ、という報告を社に届けた。じつはこのレポートには少なからずの「希望的見込み値」が盛り込まれていたのだが、当時の設計グループの気持ちを代弁するのなら「嘘も方便」だったのだろう。レース活動再開が社内で議論されている間も、設計グループは 1959 年用 レーサーの開発に、祈りとともに励んでいたという。

 そして、晴れて活動再開の英断が下されることとなるのだが、設計グループは、報告に盛り込まれた「方便」と現実のギャップを埋めるために、多忙な日々を送ることとなった。1957 年大会の優勝タイムから設定した目標タイムをクリアするためには、より高回転まで回りながら耐久性の高いエンジンの開発が必須だった。 だが、今日ほど基礎研究データの蓄積がなかった当時は、テストして、壊れては改良し、の繰り返しという苦行を開発者に強いた。

                        
                       爆発的な人気を博した「コレダ号」。(1954 年)
                  コレダCO型のロードテスト風景。手前がプレスチャンネルフレーム車の COX1、
                      奥が COX1 に代わって登場したパイプフレーム車の COX2 だ。





 試行錯誤の末、完成した 1959 年型レーサー、コレダRB とともに、チームは本番の 3 カ月前から浅間での合宿に突入し、必勝を期した。選抜ライダーたちがトレーニングに励む最中にも、マシンの改良は繰り返され、設計者たちは本拠地の浜松と浅間を何度も往復した。本番で使用するマシンの性能と耐久性が確立されたのは、レース直前の 8 月頭。練習走行のタイムでは、優勝を狙えるレベルまでに達しており、チーム内の期待感は膨れていった。

 しかし、好事魔多し。決勝レースは生憎の雨に見舞われ、未舗装のコース路面は泥濘で覆われることとなる。レース経験の浅いスズキチームは天候、コース路面への対応準備が出来ていなかった。決勝に出走した 5 台のコレダRB は、レース序盤にこそその速さの片鱗を披露した。だが、転倒、予期せぬタンク亀裂などのトラブルで続々戦線から脱落。結果、生き残った 1 台(ライダー・市野三千雄)が辛うじて 5 位に入賞するという、寂しい結果に終わった。

 意気消沈して浅間を去るスズキチームの心中は、再びレースの舞台に戻ることはあるまい、という失意に満ちていた。しかし失敗は成功の母という諺のとおり、彼らの苦労がなければ、後に続くスズキ GP チーム「栄光」の歴史は訪れなかった。

 レース用エンジンの開発は継続していたが、次の出場機会はいつになるか全く不透明だったチームのもとに、新たなる使命が与えられたのは 1959 年末のことだった。奇しくも創立 40 周年にあたる 1960 年、スズキ首脳陣はマン島 TT への挑戦を決意するのである。レーサー開発の手を緩めていた設計グループに、再新たな光明が指した瞬間であった。次の舞台は、世界の桧舞台である。だが、やがて訪れる「栄光」への長い助走区間ともいえる苦闘の道程は、マン島 TT 挑戦から 2 年後の 1962 年まで、もうしばらく続くこととなったのである。

                        
                      鈴木俊三社長が第二代社長に就任。(1957 年)
         古希を迎えていた鈴木道雄初代社長が退任して、代わりに第二代社長として鈴木俊三社長が就任。
                            また、翌年には社章を S マークに制定した。



                               Vol.2 完

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