O 北京→ハルピン→北京→西安≡漢中≡西安→北京→長春〜吉林〜長春→北京 (2)
(1988年4月) → は飛行機、≡ は列車、〜 は自動車 での移動
西安〜漢中(夜行列車で往復の旅)

西安駅

漢中駅
「西安〜漢中」間は、561km
所要時間は、12時間18分

「陜西飛機厰」の幹部との打合せ

「陜西飛機厰」の招待所

招待所まわりの畑はタンポポがイッパイ
空海が学んだ「青竜寺」(西安)

「恵果 空海記念堂」と書かれている

「恵果 空海記念堂記」
小雁塔(西安)

●小雁塔
 西安城南門から3km(唐長安城のほぼ中心部)、大薦福寺境内にある塔。707年唐の第4代中宗が建立したもので,はじめ15層高さ45mだったが,明代1555年の陜西大地震により縦に大亀裂を生じて上部2層が崩落し,現在13層42mになっている.大薦福寺は病弱で死んだ高宗を悼んだ皇后(のちの則天武后)の発願により建立された。僧義浄がサンスクリット経典を漢訳したところとしても知られる.

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乾陵(唐の3代 高宗)

●乾陵
 昭陵から西北へ30km、乾県の梁山が唐の3代高宗とその皇后,則天武后を合葬する乾陵である。内部は未発掘。500mの参道の両側に並ぶ120余の石人,石獣は,高宗の葬儀に参列した諸外国の使節や,献上された動物を型どったもの。17の陪塚のうち,章懐太子,永秦公主など5つが発掘調調査され、壁画100余をはじめ、4300点にのぼる出土品が.乾陵博物館に展示されている。
 永泰公主は高宗の孫娘だが,武后の怒りに触れ17歳で没し、のち許されて乾陵内に陪葬された。内部は盗掘により副葬品は少ないが,優艶な宮女を描いた壁画がすばらしい.


「唐 高宗 乾陵」と書かれている
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  有名観光地「乾陵」の公衆便所。
   男女に分かれ、土塀に囲まれ幅広い門がある。
   中は何も無い何百坪もある広い原っぱである。
   短い草が所々生えているだけで身を隠せる所は
   全くない。みんな、あっちこっち勝手な方向を
   向いて 大小をしている。
   隅で用をたしている人はない。
   男性はともかく、日本女性は我慢して用をたせる
   だろうか?
     
楊貴妃の墓

●楊貴妃
 「傾国の名花」として名高い唐の玄宗皇帝の妃。名は楊玉環。719年,蜀の官吏の娘として生まれ,735年,玄宗の子・寿王の妃となる。しかし愛妃武恵を失つた玄宗に求められ,玄宗の後宮に入った。美人で聡明,その上歌舞に長じた玉環は玄宗の寵愛を一身に受け,745年最高位である貴妃となった。のちに3人の姉も宮中に入り,一族の揚国忠が要職に就くなど揚氏は栄華を極めた。しかしこのころより,勢力をたくわえていた安禄山と不和になり,安史の乱に追われ,玄宗とともに一族は蜀に逃れた。途中馬嵬坡で護衛の兵ガ反乱を起こし,楊貴妃と楊国忠を殺せと迫り,玄宗はやむなく貴妃を縊死させた。貴妃ときに38歳。彼女の非業の死は人々の心を引き、多くの詩や小説にうたわれた。

●楊貴妃の墓
 西安の西75km、興平県馬嵬坡にある。楊貴妃は,755年に起こった安禄山の乱を逃れて玄宗とともに蜀へ向かった。玄宗皇帝は「西の方都門を出づること百余里、六軍発せず奈何ともする無し。宛転たる蛾眉馬前に死す」と「長恨歌」にあるように,動こうとしない護衛軍を動かすため,乱の原因となった貴妃一族を除き貴妃を馬嵬坡で自害させた。墓の盛り土は美容によいと持ち去る人が多いため今はレンガで覆われている。

吉林

並木の向こうは松花江

松花江
1985・1986年にも泊まった
「西関賓館」


P 北京
(1989年8月)
北京
     



昆侖ホテル
1989年6月4日未明の「天安門事件」の丁度2ヶ月後、北京を訪れた。
道路には、戦車のキャタビラの跡が残り、商社の事務所には、銃弾のあとがあった。
北方工業公司前にて 北方工業公司・長安機器製造廠・江陵機器廠等と打合せ
← 「兌換券」:
1990年代半ば?まで、中国には2種類の通貨があった。
一般国民が使用する「人民元」と呼ばれる通貨と、外国人が使用する「兌換券」と呼ばれていた通貨の2種類である。単位は両者とも同じで「元」であった。
外国人が、外国通貨を中国通貨に両替すると、「兌換券」に両替される。外国人は、航空切符・列車の切符の購入、・ホテルの支払い、友誼商店での買い物などは、この「兌換券」でなければ通用しない。

余った「兌換券」は、出国の際に、外国通貨に両替可能だが、「人民元」は両替してくれない。
この「兌換券」は、街中の一般商店でも通用するが、「釣り銭」は「人民元」である。だから、大きな「兌換券」で買い物をすると、釣り銭で貰う「人民元」は、紙くず同様になるので注意が必要だった。
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