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哈爾濱(ハルピン)
 銀河賓館
「銀河賓館」より見えた、1985年泊まった「花園邨賓館」

哈爾濱の街を散歩
哈爾濱の街を散歩

哈爾濱飛機厰、哈爾濱発動機厰の近くに
石井部隊(371部隊)の建物が残っている。
毎日、工場への往復に通るので・・・・。

ボイラー施設の煙突
 反対側より

第731部隊(通称石井部隊)跡


 ここは、日本陸軍の満州第731部隊(通称石井部隊)が1936年から1945年まで毒ガス爆弾やペスト、コレラ、チフス、炭疽菌等の各種細菌兵器の研究・製造を担当した秘密部隊で、それを実使用するための媒体として「ノミ」や「ネズミ」の飼育もしていた広大な施設跡です。
 さらに、これらの毒ガス、細菌兵器の研究に中国人やロシア人を生きたまま生体実験として使いその数約3,000人とも云われ、これらの兵器は実戦でも使用され今でも中国各地に残物が処理されずに埋蔵されているとの事です。

                        「第731部隊(通称石井部隊)の関連記事&写真」のページへ


これも石井部隊建物跡

哈爾濱発動機厰での会食

哈爾濱飛機厰が製造している飛行機

工場内に飛行場もあり、テスト飛行もしていた
哈爾濱飛機厰の歓送会 哈爾濱空港待合室
北京「西単」の風景

西単百貨店

西単百貨店の内部

鳥を自転車に繋いで
西安のあらまし

 四方を天然の要害にかこまれている西安は,紀元前11世紀ごろから,約2000年にわたり歴代王朝が都を置いた中国一の古都。長安と呼ばれた唐代には、シルクロードを通じてインド,東ロ一マなどと通商を持つ世界有数の国際都市であった。それだけに,秦始皇帝をはじめ、玄宗皇帝と楊貴妃,僧玄奘,阿倍仲麻呂などにちなむ史跡が数多く点在し、訪れる者に古代のロマンをかきたてずにはおかない。
 この地を最初に都としたのは,殷の紂王を放伐した西周(BC1100ごろ〜同771)で,以後,秦,漢(西漢)を経て,907年,唐の滅亡に至るまで,11の王朝が都を置いた。西周は鎬,秦は咸陽、そして漢以後は長安と呼ばれた.
 漢の長安城は周囲29km,城内外に9市が設けられ物資の交易等で賑わったが,最も栄えたのは唐代であり,東西10km、南北8.5kmの城内は碁盤の目のように整然とした都市計画がなされた。ことに第6代皇帝玄宗(712〜756)のときには人口約100万,国威は周辺諸国にもおよび、いわゆるシルクロードの原点として紫髭緑眼の紅毛人も行き交い,江南地方との運河網も強化されて豊富な物資が市に溢れるなど,文化と経済の国際的な中心地であった。長安を摸して,その4分の1の規模で造営した奈良の平城京をみても,わが団の歴史は,この時代のこの都市を抜きに語れないのはもちろんである。
 唐の後に首都となることはなかったが,唐末の黄巣,明末の李自成の指導による農民蜂起もそれぞれ短期間ながらここに政権を樹立したことや,1936年の「西安事件」などで,革命史の上からも意義深い都市である。
 現在の西安は人口250万,古都としての文化遺産の保存・研究に手厚い一方延安入りを希望した多くの人々に身分証明書を発行することを主務として「紅路軍連絡所」が設けられ,翌37年に「八路軍西安弁事処」と改称された。救国の至情に燃える多くの青年男女がここを経由して革命に加わっていった象徴的な場所である。今は老幹部となった小八路(少年兵士)が案内役で当時の緊迫した様子を話してくれる。

秦始皇帝兵馬俑(西安)

●奏始皇帝

 紀元前259〜紀元210。13歳で秦王となり,紀元前221年,中国最初の統一王朗を築き,最初の皇帝の意味で,始皇帝と称した。
 統一と共に,従来の分封主義を廃し,皇帝の直轄下に官僚を配して都県制度を敷き,また貨幣,度量衡,道路,文字を統一,自らの中央集権政治を強化すると同時に,経済・文化の発展を促した。一方,「焚書坑儒」により思想,言論の統制を行った。また,皇帝の威容を示すために,首都咸陽に豪壮な阿房宮を建て,「り山」の麓には皇帝陵を築いた。現在,陵の発掘によって,その規模の広大さが知られている。対外的には前212年,現在の甘粛岷県から遼寧省遼陽に及ぶ万里の長城を築さ,北方の守りを固めた。
 しかしこうした大土木工事や戦争による経済的破綻と暴虐な政治により人心は離反し,前210年始皇帝が巡視の旅先で死ぬと,たちまち秦の政治は混乱に陥り,陳勝・呉広の乱を契機に,前206年秦朝は滅亡した。

●秦始皇帝兵馬俑坑博物館
 秦始皇帝陵の東10kmで発見された,巨大な陶俑坑。俑とは中国古代で殉死者の代りに埋葬きれた人形のこと。始皇陵を護衛するために造られた大地下軍隊で,現在も発掘中だが,8000体にのぼる規模と堆定されている。軍団は,最前列に1列72人の兵士が3列横隊をなし,その後に横40人の歩兵,騎兵,戦車などがつづく.兵士は身長178〜187cm,鎧甲に身を固め,弓,剣,茅,ゆみなどの武器を持っている。1体ごとに表情が異なり,人馬とも今にも動き出しそうなほど写実的である。
 坑の発掘部分は巨大な建物で覆われ,博物館として公開されている。




すぐ横にある博物館の入場券
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秦始皇帝陵(西安)

■秦始皇帝陵
 初めて中国を統一した秦の始皇帝の陵墓。西安東方30km、「り山」北麓ある。
始皇帝が生前から26年の歳月と70万人の労力を費したといわれ,死後も生活できるようにと地中深く造られた壮大な宮殿であった。もとは内外両城があり,内城は方形の周囲2.5km、外城は長方形で周囲が6.2kmもあった。盗掘を防ぐさまざまな仕掛けがあったといわれるが,秦の滅亡後財宝類はすべて略奪されてしまった。現存するのは陵の一部で,東西345m,南北350m,高さ40mの小山である。


秦始皇帝陵の遠望
華清池(西安)

■華清池

 市の北東30km「り山」のふもとにある温泉保養地。秦代から「り山湯」の名で知られていたが,唐の玄宗皇帝がここに華清宮を造り,楊貴妃を寵愛したことから,華清池として一段と有名になった。入ロから飛雲殿のわきをぬけると,広い池に朱塗りの亭が点在する美しい庭園。周囲にはしだれ柳や合歓の木が茂り,古代のロマンスが偲ばれる.池畔からつづら折れの石段を上ったところに華清池,貴妃池があり,楊貴妃が入ったといわれる浴槽も残されている。ここはまた,「西安事件」の現場でもある。貴妃池のそばにある捉蒋亭は,蒋介石を捕えた場所を記念して建てられたもの。


楊貴妃が入ったという浴槽も残っている

楊貴妃が入ったという浴槽
大雁塔(西安)

●大雁塔
 市の南4kmの大慈恩寺境内にあり,西安市のシンボル的な塔のひとつ。西遊記で知られる唐の高僧玄奘がインドから持ち帰った仏典の翻訳とその収蔵のため建立を献言し,652年、第3代高宗のときに建てられた。7層64mで,石と青煉瓦でできている。中の螺旋階段を最上層まで上ると,北側には西安の市街から遙か渭水の平野、南には陶潜や王維の詩で懐かしい終南山あたりまでが遠望される。空海(弘法大師)が密教を学んだ青龍寺や、唐代に都人が曲水に盃を泛べて詩句に興じた曲江池もすぐそこに見える。

西安を取り囲む「城壁」と「鐘楼」

●鐘楼
 西大街と北大街の交差点にある。四方にアーチ型通路があり,煉瓦造りで台座上に立つ外観3層,内部2層の重軒復屋式め珍しい楼閣。1384年,明の太祖のとき時鐘の楼として都の中心広済路に建てられ,1582年の神宗の代に現在地に移築された.清代に大修築が加えられたが,釘は用いず.継ぎ目なしの1本柱様式は当初のままである.


城壁の上はずいぶん広い


人民大厦
陜西省博物館(西安碑林)

●西安碑林
 北宋の哲宗皇帝が元祐5年(1090),唐の石経を保存する目的で建てた.顔真ら著名書家の原刻碑1095基が文字通り林立し,書の芸術の発展を知るうえでの宝庫である。入口の玄宗皇帝直筆の碑,内部の文字総数65万252字にのぼる「十三教」(儒教経典13種)の碑群がみもの。
 古代ローマからのキリスト教の伝来を伝える「大秦景教流行中国碑」は世界的に有名である。

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