@ 香港→北京→ハルピン〜長春〜ハルピン→北京
(1985年1〜2月) → は飛行機、〜 は自動車 での移動
香港・九龍半島
国境から中国広東省を望む
(今は同じ中国だが・・)
↓九龍の城壁に囲まれた村
1月の万里の長城

 北京中心部から約70kmほど北東へ行った「八達嶺」の「万里の長城」です。
 「万里の長城」は、紀元前221年に秦の始皇帝が天下統一を果たしましたが、このころ始皇帝が最も脅えていた「匈奴」の侵略から領土を守るために建設されたのがこの城壁です。その後も延々と城壁は拡大・延長され、明朝の時代に最終的に完成したといわれています。
 城壁は、西は嘉峪関の砂漠から東は山海関に続いています。総延長もいろんな説明があって、最も短かいのは5700km、最も長いものだと7300kmと言われています。とりあえず日本国土と比較すると、沖縄を除く最南端の鹿児島県枕崎から最北端の北海道稚内までの距離が3700kmちょっとだそうですから、少なくとも5千kmを超えるその城壁の壮大さがいかにとんでもないものであるかは想像できます。

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明の13陵(定陵・長陵)

 北京の中心から北西へ約50km、昌平県の天寿山南麓に広がるのが「明の十三陵」です。そこは文字どおり、15世紀初頭の明朝の3代皇帝「永楽帝」から7代皇帝を除く、16代皇帝まで13人の陵墓が散在しています。
 しかし現在一般公開されているのは、「永楽帝」の陵墓である「長陵」、隆慶帝の陵墓「昭陵」、そしてここ14代皇帝である「万歴帝」の陵墓「定陵」の3つだけです。
 定陵の特徴は地下数10mに作られた地下墳墓にあります。この地下墳墓へは階段で下ります。この地下墳墓はいくつかの部屋に仕切られ、それぞれに竜の飾りの付いた皇帝の玉座、鳳凰の飾りが付いた皇后の玉座、そして万暦帝とその皇后の柩などが安置されています。この地下墳墓からは、これまでに貴重な副葬品や遺骨など貴重な歴史的資料が数千点発見されているそうです。この地下墳墓は、床から壁面そして天井に至るまで大理石で作られています。しかもその造作は精緻で、壁面は寸分の隙間もなく石が積み上げられ、また天井部は見事なアーチを描いています。この大理石をふんだんに使用した贅沢な定陵の建設が、後年、明の財政をひっ迫させたともいわれています。

↑定陵
↑長陵
↑参道
1月の哈爾濱(最高温度-20°・最低温度-35°、道路は完全に凍って)
凍った道 哈爾濱〜長春(300km)を往復:第一汽車厰 鋳造工場見学へ
哈爾濱(哈爾濱駅・有名な氷祭り・凍った松花江)
ロシア風の町並み 哈爾濱駅
有名な哈爾濱の氷祭り:綺麗だが寒いを通り越して痛い!!
完全に凍った松花江(トラックも走り、河を渡っていた) 哈爾濱空港の待合室
故宮

 故宮は、1420年、明の時代に完成し、以来清王朝が滅びるまでの約600年にわたり皇帝の居所であり、また政務をおこなった場所でもあります。初めは「紫禁城」(しきんじょう)と呼ばれていましたが、清王朝が崩壊し、1912年に孫文によって中華民国が成立したときから「昔の皇宮」という意味・・・すなわち「故宮」と呼ばれるようになりました。
 敷地は東西750m、南北960m、広さは72万平方メートル、部屋数は9999室といわれています。
 ここは現在「故宮博物院」とも呼ばれ、中国では最大の博物館といわれています。(いや、規模なら世界最大では?)しかし、清王朝の宝物は、辛亥(しんがい)革命により清朝が滅んだ後、中華民国政府により保存されることとなりましたが、満州事変や日中戦争などのときに略奪から守るため、南京や上海など中国各地に分散し秘蔵されてきました。その後、第二次大戦後の国内の内戦が激化したとき、国民党の蒋介石がこれらの宝物を台湾へ運ぶよう指示し、1949年までに全体の約25%に相当する宝物が台湾へ運び出されました。この運び出しに当たっては、特に文化的価値の高いものから優先されたため、重要な宝物のほとんどは現在台湾の「故宮博物院」に移されてしまっています。したがって、「建造物以外には価値の高い宝物は少ない。」と言われています。

北京一番の繁華街 王府井 北京ダック
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